明治日本画の鬼才  久保田米僊遺作展


  【後 記】・・・・・・・・・・ 星野桂三

 「久保田米僊研究を卒論のテーマとして研究している」と、東京からひとりの女子学生が度々画廊に来るようになった。今から10年以上も前のことだ。明治前期京都での米僊の活動状況を京都府立総合資料館ほかの資料で調べているので、当画廊で所蔵する実作品を見せてほしいということだった。生誕地の京都では誰も米僊を研究対象にする人のいないことを嘆かわしく思っていたので、本当は嬉しくて全所蔵作品を見せたい気持ちはあった。しかし学生さんたちが研究活動の一環として画廊の所蔵品を見せてほしいという依頼はよくあり、中には極めてイージーに考えている人もあるので容易くは乗れない。いつものように本人の熱心さや本気度を推し量りながら、作品を小出しに見せることにした。彼女の研究意欲はほんまもんだと感じてからは、コレクションから度々作品を取り出してご覧頂いた。彼女の研究成果は、お茶の水女子大学人文科学研究紀要第55巻「久保田米僊の画業に関する基礎的研究(1)―『絵嶋之霞』の作品分析を中心にー」(2002年)と、第57巻その(2)「−久保田米僊と日清戦争―『国民新聞』におけるルポルタージュを中心にー」(2004年)、都合ふたつの論考に結実された。同校卒業後、パナソニック電工汐留ミュージアムでしばらく活躍されたが、ある時から連絡が途絶えた。本展開催に当り、彼女、福永知代さんの論考を大いに参照させて頂いている。感謝の気持ちを伝えることができないのが残念である。
 そもそも久保田米僊のコレクションを始めるきっかけは、関西美術院を中心にした京都洋画壇の歴史を網羅する画家たちの作品を蒐集し、明治初期の洋画展覧会、とりわけ田村宗立の活動状況を調べる中で、米僊が洋画家たちに混じって油彩画を出品している記録を目にしたからである。いつかは彼の油彩画に出会うこともあろうかと、とりあえずは日本画作品を目にした折に少しずつコレクションすることになっていった。かれこれ20年あまり、これまで油彩画に巡り会う機会はなかったが、米僊の本業の日本画作品がこれほどまでになり、油彩画の作例なしの遺作展の開催に踏み切ったところだ。
 1877(明治10)年島津源蔵(島津製作所初代)が京都府学務課の依頼を受けて、樹脂ゴムを塗った羽二重製の軽気球を製作し、12月13日に第7回京都博覧会場となった仙洞御所で水素ガスを詰めて大空高く揚げた。ざっと5万人の観客が詰めかけたという。その様子を米僊が<軽気球飛揚図>として細密な油彩で描いた(神崎憲一著『京都に於ける日本画史』)というから、これが最初期の油絵作品のひとつ(それより2年前に油彩で果物を描いた記録がある)だろう。なお参考図版2の絵は、米僊の原画を元に西川純(浅井忠門下の洋画家)が復刻したものと判明したところである。ともあれ米僊の油彩画に出会うことは未だ叶わない。噂では門外不出の蒐集品を誇る関西の某図書館にあるらしいと聞く。田村宗立の洋画修業の過程は明らかになっているが、米僊が一体どのようにして油彩に出会い描くようになったのか、確たる証拠はまだない。横山松三郎(1838-84)に師事したという記載も眼にしたが、東京に活動拠点を移した後なら納得できるが、京都での出会いが分からないままだ。1933(昭和8)年に日本橋三越で開催された遺作展の図録に油彩の静物画が掲載されていた。そのことを随分以前にネットで検索したことを思い出し、今回改めて調べたがヒットせず、残念ながらどうしても辿り着けなかったので参考図版としても掲載していない。
 当画廊で米僊作品を初めて発表したのは、1993(平成5)年11月に開催した特別展「日本の四季・日本の心―名画に見る春夏秋冬・十二ヵ月」のことだった。同展図録では洋画12点、日本画12点を表裏に印刷した。冊子をばらすことで、毎月のカレンダーとして翌年を通して楽しめるように工夫した優れもの(自賛?)だった。日本画部門11月の頁に採用したのが、米僊<蔦もみじ>(参考図版4)である。それより大分以前に本作を美術市場の売り立てで最初見かけた時、思わず画面にある制作年「明治15年」に目を見張ったものだった。日本美術院の菱田春草らが明治後期に展開する‘新感覚’の日本画の世界が、既に本作に見られたからだ。「久保田米僊なんて旧い時代の画家だ」という一般常識を覆すに充分なものだと思い購入したものだ。同展をたまたま訪れたアメリカ人研究者が<蔦もみじ>に見惚れた。どういう訳か彼女は米僊を知っていたから私も驚いた。日本画の展覧会をアメリカで開催する意図で方々を調べ廻っているようだったが、当時の私はうっかりしていて深く気にも留めなかった。今から考えると、彼女はシカゴ万国博覧会開催時の米僊の活動状況をアメリカの文献から見知っていたのではないか、と思う。京都国立近代美術館が<蔦もみじ>を購入してくれたのは、その翌年のことで、同作がアメリカでの日本画の名作展覧会に出品されたことを知るのはもっと後のことである。ちなみに同展図録の表紙を飾り、洋画部門11月に登場させた北脇昇<秋の驚異>は、その後に京都国立近代美術館所蔵となり、毎年秋、同館コレクションルームの展示でお目にかかれる重要作品の一つとなっている。
 その後の画廊企画展では、「明治絵画拾遺選」展(1989年11月)で<夕立(萩に蝶、童子)>(図版11)を、「創業35周年記念特別展「日本人の情景」展(2006年11月)で<明治天皇車駕東遷之図>(図版34)、<豊穣歓喜之図>(図版36)、<本多忠勝勇威之図>(図版44)の3点の紹介をした。昨年9月に開催した「画家たちの富士山」展(世界文化遺産登録記念特別展)では、<梅・富嶽図>(作品40)を紹介した。こうした米僊作品が世間で脚光を浴びることもなく時間ばかりが過ぎていった。米僊のみならず私たちの展覧会で作品が売れることは大変珍しく、成果のついてこないものとは覚悟しているのだが、いつもとなると気分は萎える。それでも偏屈画商としてくじけてはならない、と自身に鞭打って本展を企画した。「生誕150年」とか「没後100年」とかの区切りもなく、何故今なのかと問われるだろう。4月に消費税が上がり、諸物価の便乗値上げに庶民感覚が過剰反応した結果、なお日本経済が上昇気流の過程にあるとする身勝手な政治家たちの主張とは裏腹に、実体経済の動きは鈍い。界隈の食べ物やさんや美術業界の知人たちからも「あきまへんなぁー」の声しか聞こえてこない。それなのに何故、今ですかと問われるだろう。絵画作品の売買が低調な時だからこそ、こうした時間のかかる展覧会図録の作成が可能なのである。たとえ作品が売れなくても何かが残せる。そう信じたからだ。本図録で答えを見出して頂きたいものである。とはいえ、展覧会図録の写真図版では、到底彼の素晴らしい水墨画の味わいを表現し得ていないのが残念である。京都国立博物館の新館「平成知新館」の開館特別展で、中国や日本の水墨画の名品を観た直後に本図録の色校正をしたところ、米僊の水墨画に使用された墨の何とも言えない発色の繊細さ、とりわけ絖本上に発揮された米僊の技について感動を新たにしたものだ。「京博の名品たちに決して見劣りしていませんよ、米僊さん」と声をかけたくなったくらいである。是非実物を見て評価して頂きたいものだ。
 米僊が活躍した時代、幕末から明治前期は大きなうねりの最中にあった。身分や生活環境、その他すべてがひっくりかえるような激動の時代である。しかし米僊は革命家ではない。さまざまな分野で新しい試みに手をつけ、海外へ勇躍しても、いつも日本人としての矜持を示した人である。パリ万博で目にしただろう世紀末芸術の新しい波にも大した興味を持たなかったようだ。それどころか彼の地を席巻するジャポニスムの影響下の作品群を眼にして、却って心強く日本文化の誇りを見直したことだろう。パリでもシカゴでも、彼は日本の伝統を誇示し健筆を振るった。また彼ほど古典、漢籍、中国古画から日本の有職故実、南画から油絵まで、実に多分野において深く勉強をした画人を私は他にあまり知らない。初期の滑稽本や諸雑誌での挿絵、徳富蘇峰の『国民新聞』誌上での活躍などは、明治初期近代ジャーナリズムの発展途上の頃、イラスレイテッド・ロンドン・ニュースの派遣記者として来日したチャールズ・ワーグマン(1832-91)の活動と多面的に比較しながら論じることはもちろん重要であろう。が、本展ではあまり触れていない。『ジャパン・パンチ』(1862年横浜で創刊)や、それから発した「ポンチ絵」(日本における漫画の呼称のひとつ)を含めた米僊の活動は、後述の今西一著『メディア都市京都の誕生―近代ジャーナリズムと諷刺漫画』に詳しい。私達の能力では、現時点で米僊のそうした多面的な活動を総合的に理解し展覧会として開催する余力はない。惜しむべきは「京都画壇作家肖像」写真(76頁)に米僊の姿がないことだ。生涯を通して良き交友関係にあった幸野楳嶺(1844-95)が、京都画壇創始の重鎮として様々に語られるのに、米僊を語る研究者は少ない。まして展覧会が企画されることもなかった。しかし今回いろいろな角度から米僊の活動を見直してみると、日本画家の範疇からはみ出した彼の活動にも焦点を当て、今こそ大々的な巡回展が企画されるべきだと確信している。またアニメ全盛期の現代であればなおのこと、日本漫画草創期の大立て者として米僊の大展覧会を開催する意義がある。「明治日本画の鬼才・久保田米僊」には、それだけの価値があると思えるのだが……。
 9月下旬、思い立って家内と京都嵯峨野を散策した。目指したのは久保田米僊の供養塔のある祗王寺である。観光客が大勢いる嵐山から、落柿舎、二尊院を経てあだしの化野念仏寺へ向かう途中にある。随分昔、この地を訪れた頃には文字通り竹薮だらけの小径だったが、今では東海自然歩道のひとつとして整備され、界隈には郊外団地のような新興住宅や町家をイメージした分譲マンションもある様変わりの様子に驚かされた。お目当ての祗王寺は、寂れた草庵のイメージは残しながらも美しく整備されていた。昔は気づかなかったが、祗王寺へ向かう参道の入口に石柱が数本立っている。その一番右の石柱に、大きく刻まれた「祗王寺」の文字が緑色に着色され、その右下に「久保田米僊」、左下に「金子静江」の文字、最下部には「墓一町」と刻まれている。石柱から右手の坂道を登った先に目指す祗王寺がある。平家物語の平氏全盛のころ、平清盛と「祗王祗女」という哀れな二人の女性の物語の舞台である。都から遠く離れ草深い竹林に囲まれた、この奥嵯峨の地で仏門に帰依した二人が生涯を過ごした悲恋の尼寺が祗王寺である。明治初年に廃寺となったが、再建話を知った元京都府知事北垣国道が、嵯峨にあった別荘一棟を寄付して現在の祗王寺の建物となった。北垣とは浅からぬ縁のある米僊は、遺言でこの地に分骨することを望んだという。祗王寺で米僊の供養塔を目指した。入口で供養塔の在処を尋ねたが分からないという。それではと、さして広くない庭園を捜すことにした。苔むした庭園は梢の葉から洩れ差す陽光に照らされて、それは見事な風情である。しかし私たちには雅な光景をゆっくり楽しむ時間はなかった。苔庭の散策路左側中程に「金子静枝翁之居」の文字が記された背の高い碑が容易く見つかった。金子静枝(1851-1909)は名前からは想像できないだろうが、本名を錦二という男性である。米僊とほぼ同時期に日出新聞(現京都新聞)の記者(社会文芸担当)、京都美術協会委員、新古美術品展覧会委員、内国勧業博覧会審査批評人などとして活躍した人物だ。小説も書いた。建仁寺での葬儀には1,000人を超す弔問客があったという。金子は生前、畏友の久保田米僊の墓のある祗王寺に葬るようにと望んでいたと伝えられる。さて我が米僊の供養塔は、金子静枝の墓から右手奥を振り返ると、こんもりと低木が茂る一角にあった。やや小振りながらも風格ある姿。近寄ると久保田米僊の名前がはっきりと読めた。庭の一隅とはいえ、荒れ放題にされずに大切に守られてきた様子を嬉しく思い、今回の展覧会開催を報告した。庭園入口から右手すぐ奥にあるから、少し気をつければ見つけ易い。紅葉のきれいな季節には本図録を携えて改めてお参りすることにし、タクシーで次の目的地に向かった。
 二尊院の前から大覚寺や広澤池畔を通り、桜守で有名な佐野藤右衛門ら造園家の多い地を過ぎてすぐ、なるたき鳴滝の宇多野ユースホステルの裏側に、真宗高田派本山専修寺京都別院がある。同寺はもともと河原町二条にあったが、1947(昭和22)年の火災で焼失、ここ鳴滝に移転していたのである。さて住職に墓の在処を尋ねようとしても姿が見えない。墓石業者らしい若者3人がたむろしていたので尋ねると、ここはほとんどいつも誰もいないですよと教えられた。仕方なく家内と二人手分けして墓を捜し求めた。これまで私たちは方々で画家の墓を尋ね歩いたことがあり、墓捜しには慣れているのだが、どうしても見つからない。この地には真宗高田派の小さい寺の墓地が三つ並んでいる。おそらく戦後の火災でこの地に一斉に越して来たのだろう。墓も余り古い時代のものがないようだ。後日、寺の転送電話に出た僧らしき人物からは、「過去帳など一切が燃えてなくなったそうです」と聞かされた。今では米僊の墓はここにはないのだろう。
 本図録の作成に際し、京都国立近代美術館、京都市美術館、京都市学校歴史博物館、石川県立美術館、高岡市立博物館、東本願寺、同志社社史資料センター、島津製作所創業記念資料館、仏眼寺、郵政博物館などのご協力を得て、所蔵品の写真掲載のご協力を頂いた。もう1点、印刷の締め切りに少し間に合わなかったものがある。相国寺にある<伊藤若冲像>だ。近年再評価が進み大ブームとなった伊藤若冲(1716-1800)。その人気にあやかり、錦小路の青物問屋に生まれた若冲をシンボルとして取り上げた錦市場が、若冲関連の数多くの幟や看板などを設置、客寄せPRに大きな効果を果たしている。実は米僊も同じ錦小路に生まれている。若冲の生誕地から少し西に入ったところで営業していた小料理屋の息子だったという。若冲没後52年に生まれた米僊は、若冲没後85回忌の供養と展観(相国寺)に際し、近在の古老の追憶談を元に生前の風貌を推定した肖像画を描いた。その絵を参考図版で掲載すべく目論んだが、作品を所蔵する相国寺と写真資料を持つ承天閣美術館の二重の手続きで手配が遅れてしまい、今回の掲載を断念せねばならなかったことが悔やまれてならない。
 前述の<蔦もみじ>に眼を付けて京都国立近代美術館に納めさせて頂いた際の恩人、元京都国立近代美術館館長内山武夫先生が今年4月5日に病没された。享年74歳だった。京都大学大学院修了後、京都国立近代美術館(以後近美)の分館時代からほぼ全人生を近美と共に歩まれた方だ。近美の新館開館記念展「京都の日本画1910-1930」展(1986)の展覧会ポスターや図録の表紙絵に、当画廊所蔵の岡本神草<拳を打てる三人の舞妓の習作>(現近美蔵)を採用して頂いた。私達にとってあれほど嬉しく名誉に思ったことは他にない。先生には、秦テルヲ<眠れる児>(1923年頃)や甲斐庄楠音<裸婦>(1921年頃)などの異色画家の作品を画廊で目にされた時に即決された思い出が数多くある。国画創作協会の画家たちの再評価を、島田康寛先生との二人三脚で今日あるまでに押し上げた功労者でもある。先生の慧眼は、日本画の大家から無名の画人まで、洋画や工芸、そしてモダンアートの分野にまで及び、幅広い視野でのご活躍は筆舌に尽くし難い。当画廊の企画展にはほぼ毎回欠かさず足を運ばれた。近美の立地条件もあっただろうが、退職後も変わらずに遠く奥嵯峨の家からお越し頂いた。国立美術館・博物館が独立行政法人へ移行する際、各館の独自性が薄れると大いに危惧されて文部科学省に何度も掛け合われたが叶わず、無念であられたことだろう。退職後は敢えてあまり大きな舞台への登場はされなかったように思う。ご闘病中も敢えてお見舞いには参じなかったし、ご逝去の際も家族葬として内輪でなされたのでお見送りもできず、遺言により偲ぶ会も開かれなかったことは残念でならない。本展を、まず一番にご覧頂きたい先生に捧げる次第である。合掌。
 本図録作成に当たり、今西一著『メディア都市京都の誕生―近代ジャーナリズムと諷刺漫画』(1999年 雄山閣出版刊)を少なからず参照させて頂いた。私たちの付け焼き刃とは違い、本当に長い時間をかけて執筆された中から、いとも容易く引用させて頂いたことを少し心苦しく思っている。御著の後記である「おわりに」の項で共通の知人である西川長夫先生(昨年惜しくも亡くなられた)の名前を見かけた。ご夫人の祐子先生とご一緒に画廊にお越しいただいたことが再三あるのだ。今西先生は、今春小樽商科大学を退職されて大阪大学招聘教授となり、故郷の京都市在住と知ったところだ。これからもご厚誼をお願いしたいと考えている。
2014(平成26)年 10月 

最後に今年開催された展覧会に出品協力をしている画廊蒐集品を列記しておきたい。
◎_「ア・ターブル!―ごはんだよ! 食をめぐる美の饗宴―」展
(三重県立美術館 3月1日〜5月6日)
田村宗立<接待図>、久保田米僊<七幅萬笑図>画帖 、里見勝蔵<静物>
◎_「官展にみる近代美術―東京・ソウル・台北・長春―」展
(福岡アジア美術館、府中市美術館、兵庫県立美術館巡回 2月13日〜7月21日)
劉 栄楓<満州の収穫>
◎_「ねこ・猫・ネコ」展
(渋谷区立松濤美術館 4月5日〜5月18日)
炭谷義雄<猫>
◎_「美少女の美術史―浮世絵からポップカルチャー、現代美術にみる“少女”のかたちー」展
(青森県立美術館、静岡県立美術館、島根県立石見美術館巡回 7月12日〜2015年2月16日)
金陵<龍上美人図>、岡本大更<京の町へ>,岡田幽明<鸚鵡>、龍山<手習児>
松村綾子<少女・金魚鉢>(油彩)
◎_「太平洋に馳せる夢―水彩画家たちの浪漫と冒険―」展
(丸山晩霞記念館 9月13日〜11月3日)
河合新蔵作品10点 <糸つむぐ><湖畔><江ノ島海岸><大澤池畔><竹林><富嶽>
<杭州西湖西><西玲橋><渡月橋(嵐山)><水車(甲州谷村)>
◎_「小川千甕展〜縦横無尽に生きる〜彼は、仏画師、洋画家、漫画家、日本画家だった〜」展
(福島県立美術館、泉屋博古館分館、京都文化博物館巡回 10月1日〜2016年1月)
小川千甕<白川女><ダンサー><水郷><水田風景><柿本人麻呂>
◎_「寺崎武男―ヴェネチアを心の故郷にした日本近代絵画の先駆者―」展
(久米美術館 10月2日〜11月16日)
寺崎武男<遣欧使節ヴァチカンへの行列>(六曲屏風)
<遣欧使節ヴェニスの歓迎〜レデントレの祭り〜>(六曲屏風) <ヴェニス風景>(油彩)
◎_「生誕140年・没後60年記念 水彩表現の開拓者・三宅克己回顧展」
(徳島県立近代美術館 10月11日〜12月7日)
三宅克己4点 <ブルージュの教会><地中海岸><ウインザー風景><森の道(湯ヶ岳)>


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