忘れられた画家シリーズ37「バラの名手二人展」
真野紀太郎(水彩)/池田治三郎(油彩) 2016年5月17日(火)〜6月11日(土)

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 これまで星野画廊の企画展では、断片的に真野紀太郎と池田治三郎の作品を展示してきている。

 水彩画家・真野紀太郎に関しては、「水彩画の黄金時代」展(1994年 平成6)において、真野に加えて石川欽一郎(1871-1945)、大下藤次郎(1870-1911)、河合新蔵(1867-1936)、丸山晩霞(1867-1942)、三宅克己(1874-1954)ら水彩画黎明期の中心人物5人による作品40点を紹介した。真野作品は8点の紹介だった。「よみがえる百年前の風景—いま、水彩画への誘い」展(2009年 平成21)では、29人の画家による水彩画52点の展観を行い、3点の真野作品を紹介した。

 この間、各地の公共美術館開催の水彩画回顧展に以下の如く真野作品の出品協力をしている。
 「水と光との出会いー近代日本水彩画の展開」展(1987年 福島県立美術館)
  :<バラ>(現在千葉県立美術館蔵)
 「日本近代水彩画と水野以文」展(1993年 浜松市美術館/河口湖美術館)
  :<バラ>(図版9)<バラ>(図版15)
 「みづゑのあけぼのー三宅克己を中心として」展(1991年 徳島県立近代美術館)
  :<バラ>(図版15)
 「丸山晩霞と日本水彩画の流れ」展(1998年 長野県信濃美術館)
  :<バラ>(図版9)
 「近代日本の水彩画—その歴史と展開—」展(2006年 茨城県近代美術館)
  :<薔薇>(現在京都国立近代美術館蔵)
  などである。

 作家略歴(P.2掲載)でも分かるように、真野には明治末期頃の水彩画啓蒙活動では大下藤次郎らと共に様々な活動が見られる。ところが『日本水彩画名作画全集』(1982年 第一法規刊)の『名作選(明治)』では選に洩れた。練馬区立美術館で開催された「明治期の水彩画—水絵の魅力」展(1991年)でも真野作品の紹介はなかった。その理由として考えられるのは、明治から大正にかけての真野作品が現存していないことにあるのだろう。かれこれ40年近い私の画商活動の中でも、彼の明治期の作品を見かけたことがない。まだある。真野が師事した中丸精十郎とその周辺を回顧する「中丸精十郎とその時代」展(1988年 山梨県立美術館)においても、紹介された真野作品6点のうち大正期の1点を除けばほとんどが昭和期のものだった。他作家の作品にはすべて19世紀の作品を揃えていたのに、真野だけが異例の扱いとなっていた。主催者もさぞ苦労したことだろう。かように真野の明治期の作品が見つかっていないことは、全く不思議としか言いようがない。ところが最近になって初期の油彩画が初めて原田直次郎展(埼玉県立近代美術館、神奈川県立近代美術館 葉山、岡山県立美術館巡回)に紹介されていることを知った。萬鉄五郎の祖父を描いた<萬長次郎像>(1902年 キャンバスに油彩 萬鐵五郎記念美術館寄託作品である(挿図#1)。中丸精十郎の没後に真野が原田直次郎門の入った縁があって陳列されたそうだ。萬が真野紀太郎のもとに水彩画の指導を受けに通ったことが伝わっているのが、それも真野が祖父の肖像画を描いた縁によるとされている。萬家と真野との関係がいつ始まったのかは判然としていない。まだ謎に包まれたままの真野の前半生である。

 真野紀太郎が東京都大田区下大森の馬込村役場前に居を構えたのは、1917(大正6)年のことである。それはまだ界隈が文士村と呼ばれるより随分以前のことである。やがて山王の望翠楼ホテルを舞台にした「大森丘の会」の活動が、伊東深水、小林古径、川端龍子、日夏耿之介(こうのすけ)、長谷川潔、真野紀太郎らによって活発化していった。関東大震災後には尾崎士郎の誘いで馬込に次々と文士たちが寄り集まるようになった。『赤毛のアン』の翻訳で知られる村岡花子や、近代木版画の川瀬巴水らもこの地で活躍した。

 現在「馬込文士村」は、大正末期から昭和初期にかけて多くの文士や芸術家が暮らし交流を深めた地として、その足跡を辿るホームページまで出来ている。昨年、大田区立郷土博物館のKさんが真野紀太郎の調査のために当画廊に何度も問い合わせをされてきたが、その後退職されたことを最近になって知った。同館とは音信が途絶えたままだが、本展を機会に真野紀太郎の顕彰作業が同館で再開されることを祈っているところだ。いずれは遺作展開催も視野に入れて頂きたいものだ。

 さて池田治三郎に話を移したい。
 神戸生まれの池田が、京都の関西美術院に入学して本格的に洋画の勉強に取りかかったのは、1909(明治42)年のことだった。その前年にフランスから帰国したばかりの鹿子木孟郎(1874-1941)が、高等工芸学校の講師となり、関西美術院の院長にも就任していた。鹿子木は第2回文展(1908年 明治41)に<ローランス画伯の肖像>や<ノルマンディーの浜>などの重要作品を出品した。そして池田の入学した年の第3回文展には審査員となり、名作<新夫人>を出品した。まさにその作画活動のなかでも脂の乗り切った頃の鹿子木に池田が師事したのである。19世紀フランス絵画のアカデミズムの正統に属したローランスの画塾で徹底した写実を仕込まれた鹿子木の院での指導方法は、浅井忠以来の教え方に共感していた画学生から後になって大いなる反発を喰らうことになるのだが、この時期に入学した画学生たちは鹿子木流の教え方で、基礎からみっちり画技を仕込まれたことは想像に難くない。

 23頁に掲載している<ある女の顔>(第5回文展初入選作)(参考図版2)と<女四人>)(第6回文展三等賞受賞作)(同3)の絵の中央に描かれたモデルは、鹿子木の<インスピレーション>(挿図#2)と題された1911(明治44)年の絵のモデルと同じであろう。

 また図版26<髪にてをやる裸婦>のモデルも鹿子木の<裸婦>(1930年)(挿図#3)と同じ人物ではないかと思っている。

 このように池田の作画過程に師の影響が色濃く、後年池田が鹿子木門三羽烏のひとりと謳われるようにもなったのであろう。ちなみにその三羽烏とは、池田治三郎と、アカデミー下鴨家塾では後進の指導にも当たり、京都大学代々の学長や湯川秀樹博士の肖像を描いた肖像画の名手・服部喜三(1893-1978)、そして第9回帝展(1928年 昭和3)で<稚き日>が特選となった井垣嘉平(1892-1970)である。井垣は、年一作しか描かないほど時間をかける徹底した写実姿勢が伝説として伝えられる異色画家である。

 本展では池田をバラの名手と称しているのに、図版28<具足>を加えている理由も彼の徹底した写実ぶりのよい見本となると思ってのことだ。この具足が誰のものかは定かではない。卍の家紋が蜂須賀家のものとして有名だが、おそらく節句の飾り用に製作されたものではないだろうか。

 現在千葉市美術館で開催中の「生誕140年・吉田博展」(5月22日まで、その後郡山市立美術館、久留米市美術館、上田市立美術館、東郷青児記念・損保ジャパン 日本興亜美術館へと長期巡回)に、一連のバラの絵が出品されている。なかでも吉田博の自宅応接間を飾った4点のバラの絵(挿図#4)は、池田の#19(鉢植えのバラ>との関連もあり興味深い。どちらもほぼ同時期に鉢植えのバラを描いているからである。風景画ばかりを描いたと思われがちな吉田の意外な側面を知ることができた。同展には1点、珍しい<裸婦>が出品されている。岡田三郎助ばりの柔らかな筆捌きの描写には驚かされた。ちなみに吉田が最初に画家としての手ほどきを受けたのが、京都の田村宗立の明治画学館だったことを言い添えておく。

 参考図版に5点の裸婦像を紹介(その中でただ1点のみが京都市美術館の所蔵品として現存)しているが、バラの名手・池田治三郎は、裸婦像を描く名手でもあることが分かるだろう。蒐集品に限る本展では、池田の裸婦像2点の紹介しか出来なかった。まだどこか初々しさの残るモデルを、一方はアトリエのソファの上で髪の毛にそっと手をやる姿で、片方では白樺の木のある水辺の緑陰で横座りのモデルが優しく右手を差し伸ばして木の実をつまんでいる姿で描いた。両作に池田の温かい人間性が感じられるように思えてならない。それは華やかなバラを描くときの視線に共通したものでもある。ねっとりした量感のある油絵の具を使いながら、池田の絵筆はいかにも軽やかにまた優しく、バラの愛らしさや華やかさを謳いあげている。裸婦もバラも、池田にかかると天使のような存在として永遠の命が吹き込まれてしまったようだ。

 柔らかい印象のある水彩絵の具(多くは不透明絵の具)で、きりっとした輪郭線と豊富な色彩を使用して、バラの華やかな生命力と美しさを強調した真野紀太郎とは好対照だろう。

 なお池田治三郎の生地、神戸市にある兵庫県立美術館には、遺族が寄贈した作品36点が所蔵されている。自画像3点など、(挿図#5)婦人像2点、裸婦2点のほかは全てがバラの絵である。手許にある同館所蔵作品図録(1980年刊)で見たが、<バラ>(25号大)と<裸婦>(25号大)は力作のようだ。バラの作品ほとんどが、4号大の紙やキャンバス、板のスケッチ板に描かれている。小品はほとんど額装もされていないまま保存されているに違いない。美術館にはそのような作品にいちいち額装を施す予算もないだろうし、愛すべき池田治三郎のバラの小品は美術館の収蔵庫で永遠に眠って暮らすことになる運命なのだろう。ちょっと残念な気がする。

2016(平成28)年5月

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