生誕90年/没後37年/パンリアル60周年
三 上  誠 の 生 涯
〜恐怖と寂寥が芸術を作る〜

  日本画変革の原点としての三上誠       針生一郎

 敗戦直後に生まれた日本画変革の運動として、「パンリアル美術協会」ほどわたしが注目したものはない。その提唱者・組織者は、戦争末期に京都市立絵画専門学校を卒業して、そのまま同校日本画科の副手をつとめていた三上誠であった。三上は当初、戦前に丸木位里、岩橋英遠らが結成した「歴程」グループを、受けついだ同校先輩の山崎隆に相談して、この日本画変革グループを再興しようとしたが、「歴程」がすでに解散して再興すべき実態がないことを知って断念した。また同じころ同校教師の上村松篁らから、「創造美術協会」(現創画会)という日本画団体の発足にあたり、個人的に入会を誘われたが、公募団体では日本画を徹底的に解体してウミを出しきれないと、三上は入会をことわったらしい。こうして1948年、京大美術史教授上野照夫を顧問として、三上が上野の了解を得て命名した「パンリアル」には、日本画・洋画という無意味な派閥区分をこえて、普遍的にリアルな世界をめざす意志がこめられたのだろう。創立メンバーは山崎隆をのぞけば、大野秀隆(淑嵩)、小郷良一、佐藤勝彦、下村良之介、鈴木吉雄、田中進、星野真吾、不動茂弥、松井章と、いずれも京都絵専出の三上の後輩たちであった(豊橋出身の星野が前から知り合っていた中村正義にも声をかけたが、「おれは君らと違って美校にも行っていない。日展で特選をとるのが先決だ」とことわられたらしい)。

 曳光は 轟き 隕ちた。フォーヴ、ダダ、シュール、アブストレー…
 一切のエコールが砕け、
 今怒号と暗黒の渦まく巷で、芸術は明日の蒼空を掴もうとみもだえている。
 日本画壇の封建的ギルド機構をうちやぶれ。
 日本画の退嬰的アナクロニズムに挑戦しよう。

 わたし自身は、主として京都や大阪でひらかれた初期パンリアル展を見ていないから、まず共感をおぼえたのは三上が起草したというこの「パンリアル宣言」である。のちに図版を通して知った彼の<戦災風物詩>(1949)や<F市曼荼羅>(1950)などの絵も、まさにこの宣言通りで、戦争末期の大空襲に続いて敗戦直後の大震災を経た郷里福井を舞台に、からっぽの地平や机上にもっぱらピカソに学んで人体を解体した断片や抽象図形を乱雲のようにモンタージュしながら、廃墟と闇市、開放感と虚脱が渦まく「戦後」のヴィジョンを岩絵具と膠のマティエールに定着したものだ。

 ところで残念ながら、三上誠の高揚期は長続きしなかった。1950年には神戸の私立親和学園の講師となったのに、翌年そこを退職したのは体調のわるさのせいらしいが、医者嫌いの彼は血便も痔のためと自分に言い聞かせて、「パンリアル」会長に選ばれての活動も制作も人一倍旺盛に続けた。ついに1951年、肺結核と診断されて京都病院に入院し、4回にわたる胸部切開手術で左右の肋骨を11本も切除された。わたし自身は戦争中肺結核にかかったが、胸に空気を注入して肺を安定させる気胸療法を受け、そのため学徒出陣の時期の兵役も軍需工場への動員もまぬかれた上、戦争末期の農村勤労動員でたらふく飯を食べては澄んだ大気中で労働して、いつしか結核を完治するに至った。1950年代末にはストレプトマイシンその他の特効薬が発明されて、結核は不治の病いではなくなった。だから50年代初頭の数年だけ、肋骨切除手術がさかんにおこなわれ、痛ましいのは中村正義もそうだが、肩骨が張っていても胸部ががくんと凹む外観だけでなく、10年以内にかならず結核が再発することだ。


 三上誠も手術後両親のいる福井に引き揚げ、北陸本線の線路に近く、越前電鉄のマイク、近所や自家の工場の騒音もひびいてくる実家で、3年も制作を休んで療養をせざるをえなかった。その間、『跛のバレリーナ』になぞらえた自嘲の詩や、トレモロの肢体の次のような絶唱を、わずかに憂悶のはけ口としているとみえる。

 肋骨のひびき日暮れトレモロ
 冷たい風に赤くそめた空洞の家
 歌を詠うにしきたのかかぜゆすり
 次におどれ北陸のゆきのきせつ
 獣の野の肌あれざらざらの頭
 吐け吐け泥の心にあふれたるいたみ

 だが、1954年から再開された絵画の<習作>には、情念を濾過して自分の中に居座った病患を凝視し、その苛酷な運命のうちにも転生の可能性をまさぐる探求が展開される。ひびわれた大地、きのこ雲がかがやく地平に、やせた骨とこぶのような関節だけめだつ人物や、胸から大きな葉っぱをひろげ、トゲのように手足をつきだした人物が抱擁しあい、機械のように林立したりする。やがてアンフォルメルが日本に流入して、物質と行為との激突にみちびいた時期になると、荒蕪な下地に化石した生の痕跡を刻印した連作を経て、分厚い石膏の地に細紐を塗りこめたり、鳥の子和紙に墨の筆触をにじませたり、あるいは石膏の上に鳥の子紙の断片やまるめたかたまりを貼りつけ、その上に墨をこすりつけたりする連作に達した。

 発病当初から三上には「パンリアル」の会合で知り合った乾昌子との恋愛が続いていた。  

 共同して生活出来るだろうか
 私の風のような健康
 そなたのslowな人ぎらいなはにかみ

 昌子が自分と死ねたらと言って来ている。
 或は自分も心の底にそうして終いたい気持ちがかなりあるのを感じている
 外えはそんなことを出していないけれど、気持ちよく海辺を歩いて見たい
 と思ふ
 死の誘惑と言ふものは何と言う切なく甘いものか

 これらの詩と日録は福井に帰った初期のものだが、制作に熱中すると病気がぶり返す悪循環のなかで、1960年ごろ、小春日和のように健康が回復して自信を得た三上は、61年に長すぎた猶予に終止符を打って昌子との結婚にふみきった。だが、もともと共生よりも「共死」の願いに発したこの結婚は、まもなく妻のノイローゼと夫の体力すり減らしにより、常時の修羅場と化したらしい。62年以降の、ヒダのある段ボールや輪切りにした木の枝を貼りつけたコラージュ連作は、新婚当初には思いがけない自己否定の極限を通して、超越的な運命への凝視を痛感させる。とりわけ、1965年以後、もっぱら鍼灸による療養に熱中した三上は、作風でも人体経路図を基本とする抽象図式絵画に転換した。

 同じ年、二人の編集者の肝煎りで、先輩社人の嫉妬にいや気さして青龍社を脱退した横山操と、日展審査員ながら師の中村岳陵と対立して日展をやめた中村正義を中心に、異端異風の日本画家ばかり集めてわたしが主宰する形の月例「日本画研究会」をはじめた。三上誠とは面識もないので、病気のため彼は姿をあらわさなかったと思っていたが、死後彼の肖像写真を見て、ああこの顔ならついに言葉をかわさなかったにしろ、二度ばかり研究会にきていたなと確認した。この研究会の成果を問うため、日本画廊で開催した「これが日本画だ!」展にも、三上は出品していることが記録で知られる。実はこの展覧会を、中村正義が日展反対の公募展にしたがっていると知って、わたしは2回で打ち切ったのだ。1972年か73年、日本橋三越で「人人展」がひらかれ、亡くなったばかりの三上の作品も数点展示されたその会場で、中村正義は「これは日本画研究会の発展のつもりだ」とわたしに語った。

 もう一度三上個人に戻ると、西洋医学への不満と花鳥風月的な日本画への反発から、彼が人体経緯図を通して東洋医学、暦法、易学、仏教の輪廻転生観など、東洋的宇宙論におもむいたことが、晩年の書簡などにうかがわれる。1969年以降、抽象化された彼の画面にトリミングした写真をはめこんだように、なまなましい女の半顔や手足、胸などの断片があらわれて、異様な衝撃を与えるが、そこにも解体を通しての再建、死を通して新生という敗戦以来の志向が一貫しているとともに、輪廻転生の宇宙観が要約的にあらわれているといえる。

 三上誠の死後、しばらく福井大学教授の弟が作品、資料等を管理していたが、それらを処分して弟もすでに亡くなったという。わたしは「パンリアル」のメンバーでは、アンフォルメルのなかで早く国際的に知られた大野秀隆(淑嵩)や、紙粘土、陶板など多くの素材を使いこなした下村良之介よりも、三上がかかげた洋画との境界突破の理念を愚直なまでに追求した星野眞吾や不動茂弥の方に惹かれる。それにしても、生き残りのメンバーが少なくなった現在、報じられることのない悲劇的な生涯を通して、制作ではあくまで自律的世界を追求して止まなかった三上誠の全体像をまさに思い描くべきだが、それは次第に困難な課題をなりつつあるようだ。

 
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