ナイーブな感性で描いた珠玉の作品を一堂に
没後17年・藤田龍児遺作展

展覧会趣旨

〜脳血栓の発作による半身不随を克服した〜
稀有な画家・藤田龍児遺作展を開催して

1928(昭和3)年、京都市左京区に藤田龍児は生まれた。同志社出身でハーヴァード大学に学んだ父が同志社大学の教職にあったこともあり、龍児は同志社中学に学び絵画部に所属した。同工業専門学校(現同志社大学工学部)化学科に学んだが、終戦を機に同校を中退して父の故郷である和歌山県那賀郡(現紀の川市)麻生津に戻った。江戸時代末期の蘭学者で外科医師の華岡青洲が活躍した地にほど近く、藤田家は代々油問屋を営み、父も帰郷後に同村長を務めた名家である。1951(昭和26)年から3年間、画家を志して大阪市立美術研究所(天王寺)に学んだ。同期に吉原英雄や木梨アイネらがおり、怪し気な極道や廃品回収業者らがたむろする通称「軍艦アパート」と呼ばれた日本最古の大規模鉄筋コンクリート住宅の一部屋で雑魚寝生活をして作画に励む。1954(昭和29)年に新制作展に初入選。翌年に日本近代美術史を語る上で欠かせないシュルレアリスム系の美術団体、美術文化協会展に初入選し、以後は同会で活躍する。1961(昭和36)年のパリ青年美術家ビエンナーレ、62年安井賞候補新人展などにノミネートされ、その後は美術文化協会の常任委員となり活躍した。当時の龍児を画友たちは「カミソリの藤田」と畏怖したという。

画壇での評価は上がる一方だったが、売れない絵描きの生活は苦しく、近在の子供たち相手の絵画教室の先生、阪大や逓信病院の精神科療養法指導員の職で糊口をしのいだ。1976(昭和51)年重なる疲労と重圧が極限に至り脳血栓の発作で倒れた。必死のリハビリで1年後にほぼ快復したと思われた頃、脳血栓の発作が再発。脳切開手術により命だけは取り留めたが、右半身不随となり、言葉も充分に発することができなくなり、画家の道は閉ざされたと思えた。

私が現在地の神宮道に画廊を移転した1982(昭和57)年春のことである。足を引きずったひとりの男がよろよろと画廊に現れた。「ボ、ク、ビ、ヨ、ウ、キ、シ、テ、タ…」たどたどしい言葉がひとことずつその口から絞り出された。随分長く会えていなかった藤田龍児だった。その時初めて私は彼の病気のことを聞かされた。筆舌尽くし難い苦しいリハビリを5年間続け、ようやく歩けるようになったことを知った。画家として利き腕の右手が不自由となり一時は諦めた画家としての道だったが、絵筆を左手に持ちかえて修練を重ねた末、ようやくその年に美術文化展への復帰を果たしたということだった。

1986(昭和61)年の第46回美術文化展に出品された《啓蟄》を京都市美術館で見た。病気の完全克服を告げる作品の素晴らしさに胸を打たれ、いつかは藤田龍児展をやらなくてはならないと私は決心したのである。その絵では、起伏のある丘をうねうねと白線を引いた道が右へ左へと見え隠れし、犬を連れた一人の男が歩いている。丘の向こうに黒々とした建物群が押し寄せるように見えている。空は晴れているようだが何やら不気味なかたちの雲たちが浮かび、春を告げるクマンバチの群れが空中を乱舞している。陽気に誘われた虫たちも地中から這い出してきた。画面中央には季節に不似合いなエノコログサがすっくとした立ち、その姿は堂々としている。病気に倒れた画家藤田龍児が今このように復活した、その不屈の精神を物語る大切なシンボルとなっているものだ。

画壇復帰後の藤田龍児は、吹っ切れたようにメルヘンチックで楽しげな色彩と画面構成の絵を描くようになった。だがよく見ると単なる動画調の絵の印象はどこかへ消え去り、開発が進み移ろいゆく現代社会へのささやかなアンチテーゼであることが分かるだろう。描かれる主題はいつも楽しく賑やかな色彩に溢れた生活の一場面なのだが、一方で工業化が進み現代社会が変貌してゆく狭間を柔らかな批判精神を込めて描いていることに気づかされるのである。それらは彼が生きた時代、昭和を象徴しているのだ。   2002(平成14)年74歳でその生涯を閉じた藤田龍児の画業とその価値を知る人は少なくなっている。平成から令和の時代へと移り,大自然の猛威をはじめ現代社会に潜む様々な不安に怯える私たちだからこそ、藤田龍児の絵画世界の再評価の動きを加速させなけらばならない。

星野桂三(星野画廊主)

展示の模様


展示作品(一部抜粋)

「啓蟄」 1986年 第46回美術文化展
「連なる煙突」
1992年 第52回美術文化展
「静かなる町(2)」
1998年 第58回美術文化展

画廊収集品目録

ナイーブな感性で描いた珠玉の作品を一堂に
没後17年・藤田龍児遺作展
頒価:1,500円
2019年刊 B5判

 

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