「1913年パリ:澤部清五郎と川島理一郎、 そして藤田嗣治」
                                林 洋子


























1990年代以降、パリの日本人美術家の研究は「1920年代」を中心に推移し、「1920年代パリの日本人画家展」(岡山県立美術館、1994)や「1920年代の巴里より:川島理一郎、ゴンチャローヴァ、ラリオーノフ」(資生堂ギャラリー、1995)、「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」(徳島県立近代美術館ほか、1998)など大きな成果があがった。こうした成果を受け、最近の私の関心は1910年代に移っている。藤田嗣治(1886-1968)と川島理一郎(1886-1971)の1910年代の関わりを追っていた際、澤部清五郎(1884-1964)の遺品という1913年のパリで撮影された一枚の写真に川島の顔を見つけた。澤部はこの時期のパリのアトリエの写真やさまざまな美術家からの絵葉書を多数残しており、そこに川島からの数枚も含まれている。2002年春に久々に川島の大規模な回顧展が栃木県立美術館などで開催されたが、1910年代の川島の活動にはいまだ不明な点が多いようである。本稿では、澤部と川島を軸に「1913年のパリ」にしぼって日本人美術家の交流を再考したい。
 1913(大正2)年2月11日にパリで撮影された集合写真はたいへんに重要である。母国の「紀元節」を祝うパリ在住の日本人美術家の集まりは、第一次世界大戦前の、19世紀の残照をたたえるヨーロッパを体験した日本人の群像でもある。場所は、パリ左岸のポール・ロワイヤルの近く、リュクサンブール公園とパリ天文台の間にある噴水の前であり、街路樹は凍てつき、雪も舞っているのか、2月の厳しい冷え込みが伝わってくる。撮影者は誰なのかとの興味も残るが、まずここに写った17人を検討したい。























   



























 前列の左から、菅原精造(1884-1937、1904以降在仏)、徳永仁臣(1871-1936、在仏1911-1914)山本鼎(1882-1946、在1912-1916)小杉未醒(1881-1964、在913-1914)、川島理一郎(在仏1911-1915)。後列左から、柚木久太(1882-1970、在1911-1915)、和田三造(1883-1967、在1909-1914)、藤川勇造(1883-1935、在1908-1916)、澤部清五郎(在1911-1913)、桑重儀一(1883-1943、在1912-1915)、小林万吾(1870-1947、在1911-1914)、満谷国四郎(1874-1936、在1911-1914)、小柴錦侍(1889-1961、在1911-1920)、水谷鉄也(1876-1943、在1910-1914)、梅原龍三郎(1888-1986、在1908-1913)、内藤丈吉(履歴不詳)、長谷川昇(1886-1973、在1911-1915)であろう。
 関西美術院の出身者や東京美術学校関係者、アメリカ経由でパリに来た川島と桑重など出身はばらばらだが、アカデミー・ジュリアンなどの画塾やグレーなど写生地での顔なじみだろう。梅原は《黄金の首飾り》(東京国立近代美術館蔵)を描き上げて母国に戻る直前であり、安井曾太郎(1888-1955、在1907-1914)もパリにいて、このメンバーとも親しかったはずだが、胸部疾患が悪化していた時期にあたるためか、ここには写っていない。彼らに共通するのは、年長で二回目の留学中の満谷と東京美術学校・助教授の小林、水谷を除けば大半が1880年代の生まれで、明治末年に留学し、大半が1914年前後に帰国したことである。1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、大使館の勧告に従い多くの在留邦人がパリを離れる。当初クリスマスまでには終わるとされた戦争は長引き、1918年11月まで続く。この間、日本から欧州への新たな留学は中断し、1920年代からの留学生たちは中川紀元、前田寛治、佐伯祐三ら1890年代生まれが大半となり、就学の場から作品の制作、発表の機会へとフランス留学の意味自体も変質することになる。急増した在留画家のあいだで「派閥」が生まれるのも1920年代以降のことである。








































 この写真にそろった川島と澤部は、パリでではなく、すでにニューヨークで知り合っていた。足利生まれの川島はニューヨークで雑貨商を営む父を頼って1905年にアメリカに渡り、学業を終えたのちに美術を志し、1909年からワシントンのコーコラン美術学校、1910年からはニューヨークのナショナル・アカデミー・オヴ・デザインに学んでいる。白瀧幾之助、国吉康雄らも在籍した歴史ある美術学校である。一方、京都に生まれ育った澤部は、東京からこの地に来住した浅井忠に師事して洋画を学ぶ一方で、川島甚兵衛の下で織物の図案や制作に当たっていた。そして1910年、牧野克次とともに、ニューヨークの高峰譲吉博士邸の室内装飾に従事するため渡米する。仕事を終えた澤部は自らの絵画研究を再開し、1911年10月ごろから翌年2月にかけてナショナル・アカデミー・オヴ・デザインの夜間部に在籍しており、ここで川島理一郎と知り合ったらしい。川島は1911年末、澤部は1912年春にパリへと渡る。時期は前後するものの、二人はアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに登録するが、短期間で自由な研究に切り替える。画塾に通った最大の成果は、そこに出入りする日本人画家たちと出会い、もしくは再会したことであろう。



























 当時の写真や画家たちの回想録や日記などから、「1913年の紀元節」メンバー周辺がよく集まったことがわかる。仲間のパリ到着ヤ日本への帰国、母国の祝日など、集まる口実にはこと欠かない。いつの時代でも、こうした留学生たちは異郷での寂しさを埋めるべく、カフェやレストランに集い、アトリエをたずねあい、家具や家財道具を交換し、つれだってヨーロッパを旅行したものだ。藤田嗣治は、第一次大戦前のパリの日本人画家たちの交流を「皆兄弟のように親しくつきあっていた」と回想している(藤田『巴里の横顔』1929)。例えば、1912年の秋に川島のアトリエで撮影された写真には、澤部、柚木、小柴、満谷らのメンバーのほかに、パリ滞在中の与謝野鉄幹(1873-1935)がいる。また、澤部は1912年10月に安井、長谷川昇とともにスペインを、翌年3月中旬から4月下旬にかけて川島とイタリアを旅している。しかしながら、澤部と川島、川島と藤田が同時に写った写真や記録はあっても、澤部と藤田が同席するものはない。二人は日欧航路の海上で、みごとにすれ違ったのである。澤部は度重なる父の催促に応じて1913年7月にパリを離れ、藤田は父からの金銭的支援により長年の留学の夢を果たし、1913年8月初頭にパリに到着している。






































 パリに着いた藤田はまず小杉未醒を頼ったというが、直後に知り合った同年齢の川島とすぐに意気投合する。この時期の川島は、アメリカ出身でパリを基点に活動するレイモンド・ダンカン(舞踏家イザドラ・ダンカンの兄)の「ギリシア古代精神に還れ」との主張に共鳴していた。新来の藤田を誘って、ダンカン主催のコロニーがあったパリ郊外のモンフェルメイユに土地を買い、小屋を建て、農耕し、ギリシア風のチュニックとサンダルを身に着けて踊るなど、自給自足の共同生活を大戦勃発まで送ったらしい。1913年に澤部が描いた小品《ダンス》には、川島のギリシア・ダンスか、当時パリで人気が高まっていたロシア・バレエと関わりが考えられる。一方、1914年ごろの川島のスケッチ・ブックには水彩でパリの風俗や室内装飾が描き込まれ、細部の説明が文字で加えられている。こうした関心は、澤部との交流から育まれたものかもしれない。1920年代に再度パリに滞在した川島は、自らの画業のほか、パリの最新モードのレポートや流行雑貨を東京の資生堂に送ることになる。
 ところで、島崎藤村(1872-1943)も1913年5月から1916年5月までフランスに滞在し、滞在記『エトランゼエ』(1922)や『仏蘭西だより』(1922)には同胞美術家がたびたび出てくる。パリでは、同郷(長野)の山本鼎と早々に知り合っている。ほかに、第一次大戦中にそろってリモージュに疎開する正宗得三郎(1883-1962、在1914-1996)と足立源一郎(1889-1973、在1914-1918)、柚木久太らが目立つが、藤田も何度か登場する。その個性的なふるまいやスタイルだけでなく、藤村の親しい劇作家・小山内薫の従兄弟にあたる藤田に親しみを感じていたのだろう。彼らの主な交流の場は、画家たちの投宿先「ヴィラ・ファギエール」、行きつけのカフェ「シモンヌの家」などであった。




















































 「ヴィラ・ファルギエール」はモンパルナスの南にあるアトリエ付きアパートで、モディリアーニ、スーティンら「エコール・ド・パリ」を彩る数多くの異邦人画家たちの「揺りかご」のひとつであった。1912年の段階でここは「貸室12、貸画室20ばかりを擁した一廓で、貧乏美術家の巣窟であった」(山本鼎『美術家の欠伸』1921)らしく、「満谷君が最初の開拓者で、長谷川、小杉、柚木、小林、徳永、小川、金山、足立、山本、森田、正宗、沢木、生田、青山の諸君、及び僕なぞである。而して多い時には一時に五六人も居るので、全たくの日本村を現出するのである」(高村真夫『欧州美術巡礼記』1917)という。「シモンヌの家」は、「1913年の集合写真」の撮影場所にも近い、ポール・ロワイヤルにあった小さなカフェで、文学者や芸術家の集まる有名なカフェ「クロズリー・デ・リラ」もすぐそばである。
 さて、澤部清五郎である。1913年夏に帰国した澤部の、京都・西陣の家には留学中の友人たちから次々に絵葉書が舞い込む。滞欧中の手紙類も大切に持ち帰っており、それらの一部が今日まで残っていることはたいへんに意義深い。日付と投函場所からそれぞれの所在と動向を追跡し、さらに彼らの個性的な文字を目に出来る。多くはパリ以外の地方都市や国外に旅行した際に投函されたもので、文面から澤部自身も相当ひんぱんに手紙を送っていたことがうかがえる(これらは現存しない)。ファックスもインターネットもない、国際電話など難しい時代に、誰しもみな筆まめであった。澤部の場合、京都系の画家との交流が厚く、まず黒田重太郎(1887-1970)からの手紙が多い。黒田の最初の渡仏は1918年であり、「1913年のパリ」には不在だが、彼は澤部の妹と結婚していたのである。1913年から翌年にかけてヨーロッパを旅行した小川千甕(1882-1971)から、また梅原、安井からの近況報告も多い。小柴錦侍は東京系の作家だが、梅原らとともにアカデミー・ランソンに学んでいた。小柴が澤部にあてた1912年8月の絵葉書は小柴自身のドローイングで、パリを離れて郊外のグレー村に移ろうとする小柴に、パリのアトリエの大家が「Attendez mon petit Japonais(行かないで、私の小さな日本のお方)」と引き止める、ユーモア溢れるもので、震災や戦災により滞欧作品がほとんど現存しないこの作家の貴重な作例である(挿図23)。ここでは川島が澤部にあてた葉書を検討してみたい。川島はこれらに日付を書いていないため、消印や内容から時期を推定した。





















































 1)ルーアン近くのHoupeville滞在中の川島より、パリ、カンパーニュ・プルミエール9番地の澤部宛、日付不明。ルーアンの写真:封筒で送られたのか切手も消印もないが、おそらく1912年のもの。住所に「atelier23」とある点から、ここも「ヴィラ・ファルギエール」のような美術家向けの長期滞在型ホテルと推測される。旅の報告で、澤部の合流を誘っている。
 2)1.と同じくウープヴィルの川島より、パリ、カンパーニュ・プルミエール9番地、atelier23の澤部宛、日付不明:市内観光とスケッチに過ごす日常の報告。再度、澤部の合流を誘う。
 3)1.と同じくウープヴィルの川島より、パリ、カンパーニュ・プルミエール9番地の澤部宛、日付不明:自分の滞在先の住所を知らせる。1912年夏のヴァカンス中らしい。
 4)1.と同じくウープヴィルの川島より、パリ、カンパーニュ・プルミエール9番地の澤部宛、日付判読不能(8月28日か):住所に「atelier9」とあるので、澤部はホテルで部屋を動いたらしい。ウープヴィル滞在を終えて、パリに戻る旨を伝える。
 5)コルトバ滞在中の川島と満谷国四郎より、パリのヴェルサンジェトリックス通り3番地の澤部宛。1913年4月28日付:直前まで川島と澤部は二人でイタリアを旅行していたが、澤部はパリに戻り、川島はスペインにまわって満谷と合流している。
 6)フランクフルト滞在中の川島より、京都の澤部宛。1913年7月10日フランクフルトの消印。市内の橋の写真:帰国直後の澤部に、京都の夏の暑さを見舞う手紙。
 7)コルシカ島滞在中の川島より、京都の澤部自宅宛。消印判読不能。コルシカ島の写真:文面に4月とあるので、おそらく1914年の手紙。1913年の二人のイタリア旅行を懐かしむ。
















































 8)マラガ滞在中の川島から京都の澤部自宅宛。1915年3月18日東京着の消印。マラガの絵葉書(挿図37):「君のはがきが此処へ廻つてきて嬉しかつた」とあるが、年初から患っていた肋膜炎の転地療養先へ澤部の手紙がパリから転送されてきたらしい。「福原君が君の絵を買ってくれたと、それはよかったね」と文末にあるが、「福原君」は福原信三(1883-1948)のことか。川島がのちの資生堂の経営者・福原信三と知り合ったのは、1908年アメリカ東部の避暑地であった。この段階では、コロンビア大学薬学部に学ぶ銀座の薬局の跡取り息子と、観光地で売り絵を描く画学生の出会いで、その後、福原は1912年末からヨーロッパを訪れ、翌年12月までの滞在中に約2000点の写真を撮影している。パリで福原を案内したのは川島である。福原は母国への帰国後、澤部から作品を購入したのだろうか。福原は、この滞欧中にパリで撮影した作品から24点を選び、最初の写真集『巴里とセイヌ』を1922年に刊行することになる。
 9)スペイン、タンジールの川島から京都の澤部自宅宛。1915年4月14日のタンジールの消印:8から継続して川島がスペインで療養していたことを裏付ける内容。
 10)ドルドーニュ滞在中の川島より、京都の澤部自宅宛。1915年9月21日神戸着の消印。ベイナック(ドルドーニュ)の写真:病気からの全快の報告。澤部よりの度重なる手紙に返事が遅れたことに詫びている。病中、桑重、安井、柚木の世話になったとある。文中興味深い記述は「此のベイナックから六里ばかりのマルサックと云ふ小さい田舎へ来て…藤田君と一緒にやつてる」である。川島のマルサック滞在中の絵日記(1915年6月、栃木県立美術館蔵)や、藤田が当時の妻・登美子にあてた手紙を補完する資料として重要である。





















































 ところで、約1年強の澤部のフランス滞在中、旅行でパリを留守することも多かったが、こうした手紙からパリでの3つの住所を確認した。1912年5月のパリ到着直後から冬にかけては、モンパルナスのヴァヴァンの交差点に近いカンパーニュ・プルミエール通り9番地で、シェルシュ・ミディー通り84番地という住所も2,3枚あるが、これは到着直後の便宜的な連絡先のようだ。帰国直前、1913年春ごろの住所はモンパルナス墓地の裏手、ヴェルサンジェトリックス通り3番地である。これは川島の住居で、本人によれば「パリにはざらなアパート式のアトリエで、欧米各国から来ていた絵描きの卵ばかり」が住む建物だったらしい。このころの友人たちからの手紙の宛名は「Mr. Sawa & Kawa」となっている。澤部がここを離れた1913年7月から1ヶ月ほどしか経たない時期に、今度は藤田が転がり込むことになる。その藤田が1950年代に暮らすのは、カンパーニュ・プルミエール通りである。
 これまでの戦前の日本の美術は主にフランスとの二国間交流で語られてきたが、やはりアメリカも視野に入れるべきであろう。日本からアメリカ経由で渡欧した美術家たち(小林千古、高村光太郎、荻原守衛ら)、そして親か自らがアメリカに移民し、現地で教育を受けた日系アメリカ人たち(国吉康雄、ヘンリー杉本、イサム・ノグチら)。彼らはパリで南洋航路か陸路シベリア鉄道で極東からやってきた日本人美術家と出会う。日本・フランス・アメリカをつなぐ先駆的な「橋」として、川島理一郎と澤部清五郎の「滞欧米期」は見直されるべきである。
 「1913年」は、パリでアポリネールが『キュビスムの画家たち』を刊行し、ニューヨークで開催された「アーモリー・ショウ」でヨーロッパの前衛美術が一挙にアメリカに紹介された年にあたる。そして、川島が《古い街並み》《マティネ》の2点でサロン・ドートンヌに初入選するのもこの1913年秋だった。サロン・ドートンヌはこれを最後に戦争のためいったん中断され、再開は1919年となる。





























 

著者略歴:京都生。東京大学、同大学院卒業。 
東京都現代美術館学芸員を経て、  
京都造形芸術大学助教授(日欧美術交流史)。

 

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