画家、藤田龍児と過ごした歳月    藤田 光子















































 寒い或日、友人のK氏が絵描き仲間のひとりを紹介するといって、大阪より神戸にやってきた。第一印象は「目がきれいな人」だった。しかし神経質そうで、余り健康とは言い難い。その後、彼は、度々ひとりでやって来るようになった。私がOLとして勤務していた場所がら、デートコースは自然と三ノ宮や元町通りとなった。ところが彼の服装といえば、グレンチェックのズボンにしては膝が破れ、物の良いシャツだが油染み、靴はすり減り、お洒落な元町を散歩するには少々恥ずかしいようなものだった。が、私は余り気にもならず、コーヒー、食事代などは常に私の支払いだった。
 当時の画家の生活振りを垣間見ていたから、結婚するならサラリーマンよりは、憧れを持っていた芸術家の方が、という思いがあった。現実を知らなさ過ぎた自分に気がつくことになるのは、何年も後のことである。
 付き合いの日を重ね、藤田の親戚で、後に仲人さんとしてお世話になる加納川御夫妻からの、「大阪と神戸では交通費もかかるから、結婚したら」というひと言で躊躇なく、昭和31年(1956)年6月大阪YMCAにて扇町教会の中路牧師先生にお世話になり、ささやかな式を挙げた。
 私は相変わらずの勤めの関係から、新居はJRの塚本駅近くの珠算塾の2階のアパートの一室を借りた。早朝から豆腐屋の仕込みの音、夕方には階下で算盤読み上げの声が聞こえ、騒々しい新婚生活だった。夫の収入といえば、独身時の延長で、大阪黒門近くで数人の生徒さん相手の“お絵描き”の先生。
 翌年の末(1957)に長男出産のため、堺市上野芝の加納川様の2階が空いているからとお誘いを受け、ご好意に甘えることになった。生活は私の失業保険が頼りだった。静かな環境に堪え難い夫は、しばしば映画を見に行くといっては外出、煙草をぷかぷかと吸う。もちろん制作もしているのだが落ち着かない。質素な生活だった。そのうち子供が這い出し、危ないからという理由で引っ越しをした先が、今の山ノ内の借家である。
 まともな仕事があるじゃなし、お化粧道具のコンパクトのデザイン、テキスタイルのデザイン等少々の収入と、お絵描き教室では足りなかった。私の貯えも乏しくなり、当時の作品の「エノコログサ」を親戚に持ち込んだものの売れず、そのうち第2子の長女が生まれた。ミルク代にも困り、ひとりは背負い、ひとりの手を引いて暫く質屋の暖簾をくぐることでお米を得、ミルク代を得ることの安堵。衣類等僅かな質草を失っても、乗り越えられた時はなぜか清々しい思いであったことは不思議である。片減りの靴で仕事に行く夫の後ろ姿は、妙に力が入っていた。
 上野芝時代の子供たちが、電車に乗って「山ノ内教室」へ通うようになった。人づてに噂を聞いて、あちこちの小学生が、我が家の稽古場に集まるようになった。土曜日などは20数人の靴が玄関に散らかり、寺子屋のような狭い部屋に子らが駒のように詰め合う。絵具を飛ばしながら元気な子や、大人しい子の世話をしながら夫婦が行ったり来たり。台所で順番を待つ子もあり、活気に充ちていた。出来の良い絵を貼り出すと、「まるでスーパーの安売り広告みたいやーっ」と、まるで戦場のようであった。






















































































 他人(ひと)様の御好意であちこちの教室を持ち、東奔西走の毎日。その間、描くべき絵は寸暇を惜しみ、大作にも挑んだ。作品も少しは買っていただけるようになってきたが…。
 30代半ばは、「美術文化」の関西事務所を引き受け、教室の多忙な中でも至って元気であり、気迫も充分だった。展覧会の為に上京する時などは気力溢れて、会の仲間に「カミソリの藤田」と恐れられた。この頃は家庭でも近寄り難く、夫とは思えず、恐る恐るで、よく叱られもし、私は次第に自信を失っていった。上京の費用も家計を考えず、月謝の中身を既に使い果たし、口論もしばしばであった。絵描きとしては絵が優先であるといった信念であったようだ。
 夫42才(1970)の時次男を授かり、お互いに穏やかな思いになってゆく。部屋の隅の炬燵テーブルが仕事机。床に大作を広げるが、その間を子供達が行き来する遊び場でもあった。とてもアトリエと呼べる場所ではなかったが、「リンゴ箱ひとつあれば描ける」が持論の藤田は、不足をいうこともなく、只管(ひたすら)であった。
 この家には人の出入りが多かった。受験生、絵の仲間、教え子、俳人、旧友と賑わい、お酒が入れば一層楽しい。またアルバイトの阪大や逓信病院の精神科作業療法指導員としての仕事もある。愛媛短大(宇和島市)での集中講議には、夜行船にて宇和島に着く。当時の教え子からは、「“大阪の絵描きは変わった先生”として評判で、型破りの講議であったり、自由な授業で楽しかった」と聞かされた。学生仲間の中でも強くない麻雀に疲れを癒し、深夜の帰宅となる。子供の学資のこともあり、がむしゃらに働いた。
 昭和51年(1976)5月、重なる疲労と重圧が極限に至り、倒れた。脳血栓だった。右半身不随、言語障害の発症である。運良く、勤務先の病院での適切な処置でなんとか一命は取り留めた。
 以後は必死のリハビリの始まり。何より書くことが先決であると試すが、病んだ右手には力がない。くじけずトレーニングを続け、1年経った頃にはかなりの文字も書け、歩行もそれなりの散歩であったが出来るようになった。が、翌年の同じ5月、急に「様子がおかしい」と言い出し、息子が自転車に乗せ、近くの救急病院へ運んだ。再発である。幸運にも大阪では指折りの脳外科医のお世話になり、大手術に依り病根は取り除かれた。
 「先ず、歩け!」の主治医の一語で、散歩の始まりである。厳しい暑さの中、右足を引きずり、汗を流して歩いた。言葉の不自由と闘い、神社の木蔭での一息後、長居公園への道程を2、3時間かけ、汗浸しで家路につく。失意の中、兎に角頑張らねば、との思いだけがあった。付き添うべき私は、たちまち生活が急変した。夫の現実、長男の学資、日々の生活の重みがのしかかる。慣れない仕事との間に心身は疲れ果てる。日々、運命といえ、この現実を幾度恨めしく思ったことか。息子たちも葛藤の中に居た。

































































 再発の後遺症は前回より悪く、苦しみの中、左手で書けた‘線らしきもの’から、ノートは次第に埋まっていった。たどたどしいながらも絵筆を持つことが可能となり、「どうや、ええやろ」と藤田が自慢するほど、今迄にない風景が見え出し、長い苦しい5年間のトンネルを抜け出た。
 解き放たれたかのように心情が吐露され、絵は変わってゆく。“一度は絵描きを断念した”時より、再起して5年間に描き溜めた30余点により、第7回個展(1981)として大阪の「ギャラリー安土」にてお世話になった。その後は、関西画廊での個展を年中行事とし、仕事ぶりも順調に推移した。星野画廊での個展(1989)では、画廊主の星野ご夫妻のご配慮により、新聞各紙や美術雑誌にも大きく取り上げられることになった。絵描きとしての産みの苦しみにも、貧乏絵描きとしてしての暮らしの中でも、「難儀な時も、有り難い時も、天に感謝すれば良い」と藤田が記しておりましたが、ようやく報われるような思いがした。
 平成14年(2002)5月、京都市美術館での美術文化展も終わり、ホッとして友人のお呼ばれに二人で出かけ、楽しいひとときを過ごした。下旬、突如健康が乱れた。直腸癌と宣告され、5月30日入院。その後、1週目、「潰瘍手術でポリープを含め全部摘出した」と医師の説明があり、約40日間 ICUで治療点滴。やっと普通病棟に移り、お見舞いの方々とも談笑し、少し余裕が出来たと思ったが、再び熱が出始めた。8月に入り、「もう、退院するから」と、本人が見舞いの友人に宣言するようになった。ところが気分が悪いのか、「めしはいらん」と言い出して4日目の夜中の3時、病院より「急変、至急」との一報が入った。取り敢えず、弟、子供達が駆け付けた時は、心電図の音が妙に弱々しい。8月9日午前6時45分、呆気ない別れであった。






































 秋の個展に用意していた完成作品は11点、未完成の黒地塗SM数点。美文秋季展出品作20号(この作品には、とりわけ心急いでいたようだ)が、あと一息の儘で残った。

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 夫、藤田龍児が画家として此所に至る迄の長い道程、どれ程多くの方々の御支援とお力添えを頂いたことか、言葉に言い尽くせない思いで一杯でございます。厚く御礼申し上げます。
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 今回、星野画廊様、星野桂三様、万美子様には、このように立派な遺作展を開催して頂きまして、此処に至る長い歳月を、並々ならぬ御支援と御導き、御力添え賜りましたことを、深く感謝申し上げます。また今春ご出版の美術書『石を磨く』の中に、諸先輩方々の中にあって、力足らず乍らも、1頁にお加え頂き何より光栄でございます。さぞ、彼の世での夫も喜んでいることと存じます。生涯、絵を描き続けさせて頂きましたことと共に、心より御礼申し上げます。誠に有難う御座居ました。















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