画家、藤田龍児と過ごした歳月 藤田 光子 | ||
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他人(ひと)様の御好意であちこちの教室を持ち、東奔西走の毎日。その間、描くべき絵は寸暇を惜しみ、大作にも挑んだ。作品も少しは買っていただけるようになってきたが…。 30代半ばは、「美術文化」の関西事務所を引き受け、教室の多忙な中でも至って元気であり、気迫も充分だった。展覧会の為に上京する時などは気力溢れて、会の仲間に「カミソリの藤田」と恐れられた。この頃は家庭でも近寄り難く、夫とは思えず、恐る恐るで、よく叱られもし、私は次第に自信を失っていった。上京の費用も家計を考えず、月謝の中身を既に使い果たし、口論もしばしばであった。絵描きとしては絵が優先であるといった信念であったようだ。 夫42才(1970)の時次男を授かり、お互いに穏やかな思いになってゆく。部屋の隅の炬燵テーブルが仕事机。床に大作を広げるが、その間を子供達が行き来する遊び場でもあった。とてもアトリエと呼べる場所ではなかったが、「リンゴ箱ひとつあれば描ける」が持論の藤田は、不足をいうこともなく、只管(ひたすら)であった。 この家には人の出入りが多かった。受験生、絵の仲間、教え子、俳人、旧友と賑わい、お酒が入れば一層楽しい。またアルバイトの阪大や逓信病院の精神科作業療法指導員としての仕事もある。愛媛短大(宇和島市)での集中講議には、夜行船にて宇和島に着く。当時の教え子からは、「“大阪の絵描きは変わった先生”として評判で、型破りの講議であったり、自由な授業で楽しかった」と聞かされた。学生仲間の中でも強くない麻雀に疲れを癒し、深夜の帰宅となる。子供の学資のこともあり、がむしゃらに働いた。 昭和51年(1976)5月、重なる疲労と重圧が極限に至り、倒れた。脳血栓だった。右半身不随、言語障害の発症である。運良く、勤務先の病院での適切な処置でなんとか一命は取り留めた。 以後は必死のリハビリの始まり。何より書くことが先決であると試すが、病んだ右手には力がない。くじけずトレーニングを続け、1年経った頃にはかなりの文字も書け、歩行もそれなりの散歩であったが出来るようになった。が、翌年の同じ5月、急に「様子がおかしい」と言い出し、息子が自転車に乗せ、近くの救急病院へ運んだ。再発である。幸運にも大阪では指折りの脳外科医のお世話になり、大手術に依り病根は取り除かれた。 「先ず、歩け!」の主治医の一語で、散歩の始まりである。厳しい暑さの中、右足を引きずり、汗を流して歩いた。言葉の不自由と闘い、神社の木蔭での一息後、長居公園への道程を2、3時間かけ、汗浸しで家路につく。失意の中、兎に角頑張らねば、との思いだけがあった。付き添うべき私は、たちまち生活が急変した。夫の現実、長男の学資、日々の生活の重みがのしかかる。慣れない仕事との間に心身は疲れ果てる。日々、運命といえ、この現実を幾度恨めしく思ったことか。息子たちも葛藤の中に居た。 |
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再発の後遺症は前回より悪く、苦しみの中、左手で書けた‘線らしきもの’から、ノートは次第に埋まっていった。たどたどしいながらも絵筆を持つことが可能となり、「どうや、ええやろ」と藤田が自慢するほど、今迄にない風景が見え出し、長い苦しい5年間のトンネルを抜け出た。 |
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秋の個展に用意していた完成作品は11点、未完成の黒地塗SM数点。美文秋季展出品作20号(この作品には、とりわけ心急いでいたようだ)が、あと一息の儘で残った。 ……………………………………………………………… |
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