藤田龍児の黄色い空とエノコログサ    星野 万美子








































 第一印象で優しく素朴な雰囲気を感じさせる藤田龍児の絵の中には、実はちょっとした巧妙な仕掛けが組み込んである。絵全体に溢れる色やマチエールの美しさと、愛らしい懐かしさと共に、それとは全く違う所から発したと思われる、真に摩訶不思議なもの、意味ありげに示唆に富んだもの、そして怖〜いものまでが控えめに隠れているのだ。「あらっ?」と思うや、もう絵の中に引きずり込まれてしまっている。
 頻繁に出て来る植物は、木であったり、草花であったりするのだが、具体的にどんな植物を想定しているのか、皆目見えてはこない。植物だけではない、建物や、道、線路、山、橋だって、よくありそうで、なかなか具体的に想い出すことも見つけることもできない。確かどこかにあったと思えるような雰囲気を持ってはいるが、やはり現実とは少し違う。一言で心象風景と言い切れない、”不思議”が画面に見え隠れするのだ。ヘビに至ってはそれをも越えている。なぜヘビがこうならなくてはいけないのか一度聞いてみたい、誰もがそんな気になってしまう。
 大好きな祖父に「何で?何で?」と問いつめていた幼い頃のように、私はいろいろな”不思議”を確かめたくて、こっそり秘密を知りたくて、御本人に何回も問うたものである。ところが、ただニヤニヤするばかりで、とうとう一度たりとも答えようとはせず、天国へ行ってしまわれた。
 「この人にはかなわんなあー。細かい所まで見て、あれやこれや考えはるし。」が口癖で、それなのに、そういうやりとりを楽しんでおられ、絵に見入っていると必ず傍へ来ていたずらっぽく顔を覗き込まれる。絵を描く人と観る人の原点がそこにあったように思う。観る側としては、理屈っぽい答をあせって知りたがるものだ。描く人にとってはそう易々と一口で言えるものではなく、反対にどこまで感じてもらえたかが気になるはず。それで私達は遺された藤田龍児の絵を前に、いくつもの宿題を背負いながら、延々と楽しい追求の旅を続けていくことになる。彼の狙いはそこにあると、私は見ている。わざとそうしていると思えて仕方がない。
 さて旅のはじめに、風景を得意とする絵に必ずといってよいほど出てくる、空と雲がある。「こんな色の空ってある?」「この雲見たことある?」と言いたいような空と雲を緻密に描く。昔から今もまだ気になり続けていること、それは、空が黄色いのである。ある日、奥様にそのようなことをお話すると、黄色っぽくプツプツとして何だかおいしそうなチーズケーキかシフォンケーキみたいな空を指して「これでないといけないんだ。」と言いますのよ、とおっしゃる。なるほど、そのマチエールは、何回も下地に手を掛けて仕上げたことがよくわかる、不思議な魅力に溢れている。ただのおいしそうなチーズケーキではない。















































































 その空は、明るいはずの黄色、太陽の光を満々と受けた黄色ではない。朝焼けでも夕焼けでもない。じっと見ていると、暖かいはずの黄色がだんだん私を凍らせていく…。何とそこには、底知れない深い闇、向こうにちらっと見える深淵の暗黒の世界を伝染させて氷りついていくような、寒々とした黄色が全面に横たわっているではないか。空が黄色いだけでも意味ありげなのに、これはただものではない、何かがある、と問い続けている。下地が黒でないといけない理由や、よく出てくる真っ黒の池と川とあわせて、黄色い空には深長な意味があるのか。黄泉(よみ)の国の黄色なのか。リアリティを追い求める者、あるいは死の淵から生還した者だけに見えるものなのか。私にも見ることができるのか、藤田龍児はその遠い空の奥に何を見ていたのか…。
 次の行く手も長旅になるだろう。エノコログサである。藤田龍児の絵に、これだけはそれと分かり過ぎるほどに声高に主張して登場するのだ。どこにでも生えて嫌われものの、あの雑草のエノコログサが、である。温帯から熱帯にかけて広く分布するイネ科の一年草だが、畑地に生育する約300種の雑草の中でも特に問題児扱いされる「主要雑草60種」のひとつ、という汚名を着ている。しかも、メヒシバ、オヒシバと共に「難防除雑草」としての首位を競う、どうも厄介な存在らしい。6月頃から穂を出し、夏中、畑地や都会の道端のそこかしこで見られる代表種のエノコログサを筆頭に、少し大型で穂が垂れ、北米から里帰りしたアキノエノコログサ、穂が金色に輝くキンエノコロ、穂が紫色を帯びるムラサキエノコロ、アワ畑の周辺にあるアワとエノコログサの自然雑種とされるオオエノコロなど数種があるという。
 エノコログサは、他のどの草よりもまっ先に、どこにでも、主に種子で旺盛に繁殖する生命力の強い植物である。路傍の植物ゆえ、あまり草花に関心のない人でも知っているが、それには他にもわけがある。名前の由来だ。いぬころ草がなまったとか、「狗尾草」とも呼ばれ、『エノコ』は子犬のことで『ロ』は尾のなまったもの、穂をふわふわして短い子犬の尻尾に見立てて名付けたと言われる。「ねこじゃらし」とも呼ばれており、この穂に猫をじゃらして遊んだ人は多いだろう。嫌われものの雑草といえども、こんなニックネームまで付けてもらって親しまれてきた植物はそうざらにはないだろう。
 このエノコログサが、藤田龍児の絵のあちこちに、どこにでも、いつでも、形態や色彩を変えては登場する。抽象がかった初期の絵にも大量に現れる。初期からの主題のひとつである於能古呂島と関係があるのか、「於能古呂草」と当てた作品まである。それはしつこい程である。しかも、その描写には、ことのほか力が込められているのだ。穂の刺毛を1本1本細い釘か針のような物で引っ掻いて膨大な時間を割いて描くのである。そしてエノコログサは、絵の中で生き生きと伸び、あたりに生命を吹き込み、忘れがたい強烈なものとなって私達のなかにまで新鮮な芽生えを促して生き続ける。










































































 私は子供の頃から草花が大層好きで、特に野原の小さな植物には馴れ親しんだ。もちろんエノコログサは大好きである。メヒシバは細かい毛が葉や茎に生えていて手に取り難いが、エノコログサには毛がなく、緑色がきれい、姿形が整っていて優しい、そして何よりも穂が可愛い、良いことずくめの恰好の遊び相手であった。頬をたたいてみたり、いつも一緒の犬の鼻をくすぐるのは当たり前、毛虫遊びで弟の首を撫でてみたり、おままごとに使ったり、挙げ句の果てに、家に持ち帰りガラス瓶に生けたりして家族に笑われた。でも、そよそよと揺らぐ可愛らしい穂は息を飲むほど洗練されていて、人はバカにするけれど、ハッとする真似のできない自然な美しさに溢れているのだ。
 エノコログサは英名をFoxtail grassと言い発想は日本と同じようだが、最近はこのエノコログサによく似た同じイネ科の「ラグラス」とか「バニーテール」と呼ばれる園芸種が出回っており、寄せ植えや花壇に使われるようになった。やはり、私の美的感覚に間違いはなかった、なんて少々自慢である。今も相変わらず植物達との縁を深めるばかりの生活に明け暮れている私は、早速「バニーテール」の種を蒔き花壇に採用してみた。さすが園芸種だけあって、色も白っぽく、穂も絹のように柔らかで姿もかわいらしく、本当に“兎ちゃんの尻尾”である。強健なところも雑草の血をしっかり受け継いでいる。生花に使っても他の花と引き立て合い新鮮な印象に仕上がる。
 だが、子犬か狐か兎かはどうでもいい。私はやっぱり瑞々しい淡い緑の、その辺にいつでも生えているエノコログサが、却って楚々として自然で嫌味がなくていいなあと思ってしまうのだ。何かそういう、強くて鮮烈なものが私を捕らえて離さないように、またいつでも身近にいて主張が小さいのにしっかり生きている、そのエノコログサのしたたかなエネルギーみたいなものが、藤田龍児を捉えていたのではないか。エノコログサは、人類の歴史の中で大切な食糧であった粟の祖先でもあること、また農耕文明以前には澱粉源として採取されていたらしい事も考え合わせると、この植物のただならぬ実力を感じざるをえないのだ。エノコログサよ、あっぱれ!と言いたい。
 黄色い空もエノコログサも、まだまだ山積みになっている行き先を目指して旅を続けたいし、またしなければならないが、そこは藤田龍児流にAs you like it (お気に召すまま)、精神を何にも捕われることなく自由に、しかし真剣に真実を見つけるために、また近いうちにふらっと出発してみよう。絵の中の旅は、永遠で自由でいつでもどこでも始められるのだ。行き先で、クールな、でも人としての厳しい暖かさを秘めた藤田龍児にひょっこり出会えるかもしれない。




































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