藤田龍児の黄色い空とエノコログサ 星野 万美子 | ||
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その空は、明るいはずの黄色、太陽の光を満々と受けた黄色ではない。朝焼けでも夕焼けでもない。じっと見ていると、暖かいはずの黄色がだんだん私を凍らせていく…。何とそこには、底知れない深い闇、向こうにちらっと見える深淵の暗黒の世界を伝染させて氷りついていくような、寒々とした黄色が全面に横たわっているではないか。空が黄色いだけでも意味ありげなのに、これはただものではない、何かがある、と問い続けている。下地が黒でないといけない理由や、よく出てくる真っ黒の池と川とあわせて、黄色い空には深長な意味があるのか。黄泉(よみ)の国の黄色なのか。リアリティを追い求める者、あるいは死の淵から生還した者だけに見えるものなのか。私にも見ることができるのか、藤田龍児はその遠い空の奥に何を見ていたのか…。 次の行く手も長旅になるだろう。エノコログサである。藤田龍児の絵に、これだけはそれと分かり過ぎるほどに声高に主張して登場するのだ。どこにでも生えて嫌われものの、あの雑草のエノコログサが、である。温帯から熱帯にかけて広く分布するイネ科の一年草だが、畑地に生育する約300種の雑草の中でも特に問題児扱いされる「主要雑草60種」のひとつ、という汚名を着ている。しかも、メヒシバ、オヒシバと共に「難防除雑草」としての首位を競う、どうも厄介な存在らしい。6月頃から穂を出し、夏中、畑地や都会の道端のそこかしこで見られる代表種のエノコログサを筆頭に、少し大型で穂が垂れ、北米から里帰りしたアキノエノコログサ、穂が金色に輝くキンエノコロ、穂が紫色を帯びるムラサキエノコロ、アワ畑の周辺にあるアワとエノコログサの自然雑種とされるオオエノコロなど数種があるという。 エノコログサは、他のどの草よりもまっ先に、どこにでも、主に種子で旺盛に繁殖する生命力の強い植物である。路傍の植物ゆえ、あまり草花に関心のない人でも知っているが、それには他にもわけがある。名前の由来だ。いぬころ草がなまったとか、「狗尾草」とも呼ばれ、『エノコ』は子犬のことで『ロ』は尾のなまったもの、穂をふわふわして短い子犬の尻尾に見立てて名付けたと言われる。「ねこじゃらし」とも呼ばれており、この穂に猫をじゃらして遊んだ人は多いだろう。嫌われものの雑草といえども、こんなニックネームまで付けてもらって親しまれてきた植物はそうざらにはないだろう。 このエノコログサが、藤田龍児の絵のあちこちに、どこにでも、いつでも、形態や色彩を変えては登場する。抽象がかった初期の絵にも大量に現れる。初期からの主題のひとつである於能古呂島と関係があるのか、「於能古呂草」と当てた作品まである。それはしつこい程である。しかも、その描写には、ことのほか力が込められているのだ。穂の刺毛を1本1本細い釘か針のような物で引っ掻いて膨大な時間を割いて描くのである。そしてエノコログサは、絵の中で生き生きと伸び、あたりに生命を吹き込み、忘れがたい強烈なものとなって私達のなかにまで新鮮な芽生えを促して生き続ける。 |
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私は子供の頃から草花が大層好きで、特に野原の小さな植物には馴れ親しんだ。もちろんエノコログサは大好きである。メヒシバは細かい毛が葉や茎に生えていて手に取り難いが、エノコログサには毛がなく、緑色がきれい、姿形が整っていて優しい、そして何よりも穂が可愛い、良いことずくめの恰好の遊び相手であった。頬をたたいてみたり、いつも一緒の犬の鼻をくすぐるのは当たり前、毛虫遊びで弟の首を撫でてみたり、おままごとに使ったり、挙げ句の果てに、家に持ち帰りガラス瓶に生けたりして家族に笑われた。でも、そよそよと揺らぐ可愛らしい穂は息を飲むほど洗練されていて、人はバカにするけれど、ハッとする真似のできない自然な美しさに溢れているのだ。 |
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