【よもやま話・断片】              星野 桂三
    本図録掲載の作品にまつわるエピソードや感想を順を追って述べておきたい。


(1)鹿子木孟郎<裸婦素描>:
 素描の名手、鹿子木孟郎の面目躍如というべき作品で、後年になり多くの日本画家たちが西洋風のデッサンを学ぶために、鹿子木が開設した画塾の門を叩いたという史実を思い起こし、なるほどと納得させられる。ただあまりに的確な線の描写があるからだろうか、鹿子木の油絵作品にはどこか堅さが抜けきらないところが残る。それが後世、つまらない、かたい、といった批評を呼ぶ原因となっているが、私などはその実直さや正確さがデッサンの根本になければならないと主張するのだ。近頃の新進画家の浮ついた表面だけなぞった写真のような絵を見ていると、鹿子木の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
(2)津田青楓<窓辺>:
 パリ郊外の宿屋の窓辺を描いたものか、小品ながら初々しい青年の感性が表現されていて大変好ましい。ちなみに本作は、帰国後関西美術院時代の学友である国枝金蔵に土産として贈答されたものだろう。裏面に国枝が 関西美術院で<裸婦習作>を描いている。額装を特注し、裏面も簡単に鑑賞できるようにした。
(3)有島生馬<裸婦>:
 日本洋画界の第一線で活躍した巨匠なのに、有島生馬の佳品に出会う機会は非常に少ない。これまで数点の小品を取扱ったことがあるが、滞欧期の秀作を入手することが念願だった。本作は最近になりようやく出会い購入した作品だが、過去に痛みのある箇所に悪い修復が大幅に施されていた。修復家と相談しできるだけ描かれた当時の状態に戻すことにした。100年前のものとしてはかなり良い作品として蘇ったと思う。
(6)(7)菊池鋳太郎:
 今から20年も前になるが、白馬会の画家たちの水彩画や素描の小品が十点ほどまとまって出てきたことがある。それらはマットで表装された状態で額に入っていなかった。菊池の両作を本展に掲載するために倉庫を捜したが、どうしても<フロレンス>が見つからない。売れたような記憶がないから、多分この展覧会が終わった頃に思いがけないところから出てくるだろう。止むを得ず旧い写真のコピーを使用している。
(9)(10)澤部清五郎<ダンス><ショールの女>:
 これまでに幾度となく述べて来たが、澤部の滞欧作品は特筆すべきものである。<ダンス>の構図と色彩は、画友川島理一郎の滞欧作に通じるもので、後年の川島織物の織物図案の重要な業績のほとんどが澤部の手になるものだということに思い当たる。<ショールの女>は、他の数点の滞欧作と共に木枠からはずされて巻いたままの状態で、長く画室の片隅に放置されていた。ある時、まだ何も描いていないキャンバスだと思った未亡人が、川島織物関係者に「これに絵でも描いたら」とか言って与えた。もらった人が家に持ち帰ってから内側の絵に気がつき、びっくりして夫人に返しに行ったという。私が入手したのは、その後数年経ってからのことだ。
(11)寺崎武男<ヴェニス風景>:
 まだ駆け出しの画商だった頃、銀座の画廊街を勉強のために廻ることが多かった。通りがかりの古美術店の店頭で見かけた油絵が本作だ。黒ずんだ額に入れられた絵は、誰かが雑巾ででも拭き取ったためか絵具の剥脱が激しかった。専門家に修復を依頼したが、思ったほどに色彩や光沢が蘇らなかった。2年前、ご子息の寺崎裕則氏が父の遺作展を開催されたときに知り合い、氏から本作がテンペラ画であることを指摘された。なるほどテンペラなら油絵のような光沢のある画面にはならないはずだ。お恥ずかしい話である。
(12)寺崎武男<ヴェニスの静かなる日>:
我が国のパステル画の名手として、矢崎千代二や武内鶴之助が知られる。ところが本作を見ても分かるように、寺崎のパステル画には一段とあでやかな色彩が駆使されている。こうした作品が、近年あちこちで開催される「クレパス画名品展」には出てこない。何故なら「クレパス」はパステルの単なるひとつの商標であり、そのメーカーが自社の顧客の画家たちのパステル画を収集して展覧会をしているに過ぎないからだ。もう少し大きな視野に立ち、パステル画本来の名品展が実現できないのだろうか。最後になるが、寺崎の代表作となる大作<扶遙萬里之風>(1907年)が横浜税関で発見され、昨年に修復された後、会議室に飾られていることを付記しておく。
(13)北島浅一<踊り場>:
 北島浅一の小品はこれまでもよく見かけたが、関西の洋画家ではないから、またどうしてもという作品に巡り会わず買うこともなかった。ただ1点買うとすれば、佐賀県立美術館に所蔵されている<パリ−の踊子>とようなものが欲しいと思っていたところ、本作がオークションに出て来た。紛れもなく滞欧作で、北島の重要な時代を代表するもののひとつと考えて購入した。
(16)栗原忠二<ヴェニス風景>:
 栗原忠二はパステル画を数多く描き、佳品も多い。昨年6月に故郷の静岡県立美術館々長として赴任する寸前に急死された下山肇氏が、同館の学芸員時代に担当された展覧会のひとつが栗原忠二遺作展だった。その準備段階で、氏に本作を画廊でお見せしたとき、ロンドン風景なのかヴェニス風景なのかで、判断がつかなかった。当時栗原の大コレクターが「これにはロンドンブリッジが描かれている」と言い出したからだ。結局遺作展ではヴェニスであると結論づけられた。それより少し前のことだが、寺町通の古美術店の店頭に栗原の一級品の素晴らしい水彩画が飾ってあった。つけられた値段が到底手出しができない高値だったのであきらめた。彼のコレクター氏にその話をするとさっそく「見るだけは見ておきます」とその店に行ったそうだ。後日、どうだったと聞くと「あれは素晴らしいものでした。高かったが思いきって買いましたよ。」と言われた。その店の主人は若い頃に絵描きを目指して関西美術院で油絵を学んだが、絵描きでは食えず途中で古美術に開眼して店を営むようになったそうだ。関西美術院関係の画家たちの小品がよく飾ってあり、楽しみな店だったが、主人が急死し、店は畳まれた。後で聞くと寺町通りに古い油絵が山のように打ち捨てられて、通りがかりの人が持ち帰り自由のような有り様だったという。残念なことをしたものだ。

(17)都鳥英喜<モンティニーの秋>:
 「遅れてきた印象派」と称される都鳥の代表作のひとつと考えられる本作は、京都市美術館所蔵の<モンティニーの黄昏>と同じ場所を、違う角度から描いたものだ。遺作展後に入手したため、両作を並べて見る機会がなかったのは残念でならない。もうひとつ、とっておきの代表作<ビアンクールの朝>を大阪梅田のとある小さな画廊で20年前に見かけたことがある。その消息は杳として知れない。その画廊主もバブルがはじけて後、行方不明と聞いている。
(19)加藤静児<南仏の港>:
 陽光と散歩する人々の足音や話し声が、耳障りの良い音楽を奏でているようだ。本展の中で私が最も愛する作品のひとつである。
(20)船川未乾<南仏風景>:
 『PANTHEON』に特集された図版を見て惚れ込んだ画家だ。だが洗練された色彩と簡潔で大胆な構成の実作品を見る機会がほとんどない。1967年に京都国立近代美術館で開催された「異色の近代画家たち」という展覧会で9点の作品が、靉光、長谷川利行、松本俊介、野口謙蔵らと並べられたことがある。今では考えられないほどの名作が一堂に揃ったその展覧会を私は見ていない。もしも同展が再現されたならきっとセンセーショナルな企画展となり、大量の観客の動員が見込まれること請け合いだ。
(21)国松桂渓<仏国トルドンヌ>:
 同名の12号の作品を、国松が浅井忠の門下生だという縁で千葉県立美術館に納入したことがある。本作はその現場スケッチのようだ。1996年に遺族から大量の作品が郷里の民族博物館に寄贈され、遺作展が開催された。こうした畑違いの施設に一括して寄贈されると、国松桂渓という画家の顕彰ということではマイナスでしかないと、担当の学芸員氏に苦言を呈したことがある。どうして縁故もあり知名度の高い滋賀県立近代美術館や、京都国立近代美術館や京都市美術館などに作品を分割して寄贈しないのかということだ。国松自身が大型カメラで撮影したビッシェ−ル作品資料など、誠に貴重なものもあった。案の定、その後、研究が進められたという話も聞かない。もうひとつ残念なことがある。国松が入院中に、社中の門下生に命じて自宅にあった「つまらない絵」を鴨川の河原で消却させ、自身が病院の窓からその作業を見守ったことである。画家自身が「つまらない」と考えても、私たちのような研究者の眼には違って映ることが多々ある。残念である。

(22)川端弥之助<橋のある風景>:
 京都の洋画家としては異色の慶応ボーイ。穏やかで伸びやかな色彩と筆致が育ちの良さを物語る。生前の川端は画商相手に取り引きはしなかったが、没後、遺族宅に出入りしていた絵画ブローカーの手により何点か流出した。それらを数点、他の画廊で見たことがある。えっ、これがあの川端なの!と驚くほど風格ある重厚な油絵だった。コレクター上がりの画廊主が、鳥海青児や松本俊介や靉光の珍しいコレクションを並べているのが楽しみで、私もよくお邪魔した。どこか初な画廊主だったから、怪し気なブローカーや画商たちが日参していたようだ。都鳥英喜の項で述べた画廊主を通しても、かなりの作品が流れ出たという。
(23)小見寺八山<NUE>:
 画家としては異形の世界である逓信省や警視庁で働いた経歴の持ち主が、どのような経過で画家への転向をしたのか、事情は明らかではない。没後に発刊された画集が唯一と言える資料なのだが、その中に掲載されている秋のサロン出品作の制作年が1932とあり、何かの間違いで滞欧作品にされてしまったのだと考えられる。数年前に発見した本作の裏面にある署名と題名から、本作をサロンの出品作と結論付けた。作風も他のものと断然違う趣があり、これから脚光を浴びるだろう。昨秋、当方のホームページを見たご婦人からメールが届いた。展覧会図録の注文だったが、名前を見てピンときた。画家と同じ小見寺姓があった。電話をかけて確認するとやはり画家の親戚筋の方だった。故郷・新潟には本家筋に当る家がまだあるから一度調べてみたいとおっしゃって帰郷されたが、予想通り直系のご遺族は絶えてしまっていたそうだ。
(24)山本森之助<セーヌの舟遊び>:
 明治末期の白馬会で活躍した画家ではあるが、実際に渡欧したのはうんと後年になってからのことだった。しかも滞欧中に盲腸炎に苦しみ、帰国後の活躍も僅かの年月で終わってしまい、彼の市場価格も不当に安く見積られていた。最近故郷に美術館が開設されたせいか、評価が少しは上向きになってきたのは嬉しい限りである。余談ながら奈良にはよく来ていたらしく、たっぷりと霧を含んだ情感のある春日山の風景画も手許にあり大切にしている。
(25)(26)(27)矢崎千代二<ヴェニス><Ornance><エルベ河畔>:
 文字通りのパステル画の巨匠である。最初は油絵を描いていたのだが、世界を漫遊する際に荷物を軽くするためにも、気軽に現地で調達できる画材のパステルに転向したという。バレリーナで有名なドガの絵でもパステル画は油絵に匹敵する価格で取り引きされている。ロートレックのパステル画にも佳作が多くある。矢崎のパステル画はもっと評価されてよいのじゃないか。北京で死去した矢崎の遺作が大量に同地で寄贈されたらしいのだが、行方がつかめていないのは気掛かりだ。
(28)中村義夫<ジプシー>:
 最近はジプシーという言葉も差別用語とかでヨーロッパでは死語になっているそうだ。ロマというのが最近の統一された呼び名である。しかし私たちにはジプシー音楽だの、ジプシーの踊りとかで馴れ親しんだ呼び名の方がより親近感がある。奈良に足立源一郎が建設したモダンなアトリエを譲り受けて住み、隣家の志賀直哉を囲む「高畑サロン」と呼ばれる文学・美術畑のグループの一員である。20年前に東京で一度遺作展が開催されて注目されたが、このところ知らない人の方が多くなって来た。
(29)霜鳥之彦<赤いスウェーター>:
 日本における工芸図案の指導者として第一線で活躍した人だが、画家としての魅力の方がはるかに素晴らしいものだと考える。ところが霜鳥の画業をよく知らない画商が多く、いつだったかアメリカから里帰りした明治末期頃の水彩画に、あろうことか川島理一郎の署名が故意に為されているのを発見した。画風は典型的な浅井忠門下生の仕事と見受けられたのに、縁もゆかりもない川島の署名では情けない。画面をルーペでよく観察すると下地にうっすらと霜鳥之彦の鉛筆署名が残っていた。厚紙に裏打ちされた作品を剥がしてみると日本語でしっかりと署名、年号、題名などが記録されていた。私のように京都の美術を研究している者にとって、川島の名前より霜鳥の名前の方がはるかに重要な位置を占める。牧野克次と間部時雄の水彩画両者間でも、一部不明瞭な署名と印章の疑問点が存在している。日本における「印章」の占める判断基準(まして昔では尚更に)は、非常に重要である。まだまだ交通整理が必要な作品が世間に出回っているようだ。
(30)(31)(32)里見勝蔵<雪景ーリラダムー><渓谷の春><帆船波濤>:
 ヴラマンク信奉者としての毀誉褒貶入り交じった盛名ばかりのようだが、渡欧最初期にはユトリロに傾倒していた。<雪景ーリラダムー>はどこか「ユトラマンク」とでも呼べそうな絵で、手放したくないな、と画商らしからぬ感情に捕われてしまうほどだ。里見本来の魅力として色分けするとすれば、青、赤、黄色の3色に分けられるだろう。たまたま本展では同系統の絵ばかり並んでしまった。里見は暗青色の風景、原色の赤を奔放に使用した裸婦、黄色の裸婦や人物像、そしてそれらを融合した独自の世界である日本的な静物画を昭和の戦前期に描いている。戦後は顔をどアップした迫力のある作品以外では、あまり見るべきものはないのが残念だ。
(33)間部時雄<地中海岸>:
 浅井忠の門下生で松原三五郎の二女と結婚しているから、関西で遺作がもっと出てきてもよさそうだが、滞欧後は活動基盤を東京にしたためか、なかなか出くわすことがない。1989年、東京の間部時雄の水彩画大発見のニュースが専門誌に登場した。それらと牧野克次作品との兼ね合いについては霜鳥之彦の項で少し触れた。浅井忠とされる水彩画にも門下生たちの作品が混在している可能性があると噂されている。こうしたことに絶対的な判定基準というものがなく、大変難しいものであると最近つくづく実感している。私たちのコレクションには、間部の明治末期頃の油彩画の名品と昭和初期頃と思われる熊本の阿蘇外輪山を描いた大作があることを付記しておく。
(34)大橋孝吉<オリンピア神殿祉>
 その生涯を捧げたギリシャ美術探究の発端をなす油絵である。湿り気が少なくかさかさの風土に屹然とそそり立つ遺跡を描くのには、ぎとぎとした光沢のある油絵の質感は似合わない。テンペラのように光沢を抑えた絵具の使用法で、乾いた風土に残存する静かな歴史を見事に描き切っていると思う。画家が日本画家出身であるからこそ為し得た画面である。
(35)大橋孝吉<ヴェネツィアCADORU>:
最近の地球温暖化現象により、ヴェニスに押し寄せる高潮が水の都を沈没させかけている。サンマルコ広場近くにある本作の建物も風前の灯だ。街全体が沈没する前に一度この眼で、数々の名作の舞台となったヴェニスを観てみたいのだが、日々あくせく画廊業に勤しんでいるためにまとまった時間がとれない。家人からもイギリス、フランス、イタリア…などいつになったら行けるの、と責められている。だからといって滞欧作品でお茶を濁している訳ではないのだが…。
(36)鈴木誠<運河>:
 数ある滞欧作の中で本作は異彩を放っている。他の画家たちはできるだけ明るい色彩でフランスらしさを表現しようとしているのに、鈴木は色彩を押さえてどこか墨絵を見ているような錯覚を起こさせている。寒々とした晩秋から冬への光景であろうか、静かな画面からは青年画家の息吹きが消え去り、老成した感情の抑制のようなものが窺える。
(39)(40)井上完<楽器を持つ少年><裸婦>:
 ある時美術市場に井上の絵が何点かまとまって売りに出された。その時まで名前など聞いたこともなかったが、滞欧作ばかりだったから購入した。経歴を調べてみると桑重儀一と同じく、アメリカの美術学校を卒業後パリに渡っていることが分かった。短い生涯で残された作品も少なく、まだまだ不明なことが多い画家である。
(41)旭谷左右<ベルギー、ゲント風景>:
 旭谷の画業は、没後に刊行された画集により散見できるだけで、実作品に出会うことなどほとんどない。京都市美術館に所蔵されている古事記連作の<高佐士の七媛>が、同館の開館記念展に出品された縁で所蔵されているにすぎない。他の連作絵画作品が世に出てくれば評価が上がるかもしれない。
(42)伊原宇三郎<南仏アルルの古い街>:
 恥ずかしいことだが、私は時々ある時期の伊原宇三郎と鈴木千久馬を混同するのだ。ほぼ同じ頃(正確には伊原が数年早くに渡欧し、帰国年は両者同じ)に渡欧し、共に「裸婦三人群像」や「椅子による裸婦」などを描き帝展で競い合った。それらはとりわけピカソの古典主義に影響されたものだった。もっとも伊原の滞欧時の作品には、デュフィ風があったり、ピカソのキュビズム風の習作があったり、いろいろなスタイルの絵を勉強していたことが分かる。そして風景画といえば、佐伯祐三に代表されるお馴染みのスタイルの絵だった。伊原の遺作展では滞欧時代の作品がほとんどを占めていた。一方の鈴木は、画集にも遺作展図録にも滞欧作品がほとんど出ていない。二人の奇妙な類似点と相違点をこれからも検証してみたいものだ。

(43)田中繁吉<パリージェンヌ>:
 あまりにキスリングそっくりな印象の絵に、購入することを少したじろいだくらいである。名前だけは知っていたが、彼の絵を注目して調べたこともなく、作品を購入してから経歴を調べるといった体たらくだった。関西出身の画家と関東の画家との描き方の違いは、洋画ばかりでなく日本画でも顕著に見られる。同じ時代に描かれた美人画を見ればその差は一目瞭然だし、風景画や静物画でもその差は出ている。昨今、大阪のお笑いが東京を席巻しているそうだが、美術の世界ではどうだろうか。
(44)御厨純一<フランス風景>:
 北島浅一の項で触れた佐賀県立美術館での遺作二人展のひとりが御厨だ。拙著『石を磨く』で50号の大作<農耕図>を紹介しているが、これまでに私の視界を横切った御厨の遺作はこの2点だけだ。彼の芸大卒業制作である<凝議>と題された人物群像は、児島虎次郎の初期作品に通じるリアリズム絵画の系列にあり、そのような作品には是非巡り会いたいものだ。
(45)東郷青児<白い馬>:
 東郷青児ほど世間的な知名度を保つ画家は多くない。オークションには必ずといってよい程に晩年の売り絵が出品されている。それらが本当に東郷自身のものかどうかの議論はここではしない。が、彼の本来の芸術的価値が不当に低く評価されている現実の理由の一端が、そういう作品の出回り方にあると言ってよい。一般に「東郷青児は高い」と考えられているが、私たちは東郷の評価はもっともっと上にならなければならないと考えている。そうした考えを支えているのが、本作のような時代の作品である。
(47)熊岡美彦<ブルターニュ少女>:
 昨年のオークションカタログで本作に出会ったとき、槐樹社展の出品作で、30年前の熊岡美彦回顧展にも出ていたものだということは、手許の資料からすぐに分かった。当時のモノクロ図版からでも背景にクラックがあることは見て取れた。カタログの小さな図版をルーペで覗き込みながら作品の実際の保存状態などを想像し、今後必要とされる修復費用なども考えあわせて入札価格を考え、知人を通して注文を出した。オークション会場で実際の画面を検分した係の人から電話が入ったそうだ。相当に痛みがあって白いカビが表面を覆っており、保存状態が非常に悪いと心配してくれたのだ。そのようなことは、私たちのように古い時代の作品を発掘する仕事をしている者には当たり前のことなのだが、新画を中心に活動している方々にはとんでもないことなのだろう。幸い注文の範囲内で入札できて作品が画廊に届いた。なるほど相当に悪い状態には違いなかった。早速、懇意の修復家に無理をお願いして本展に間に合わせていただいた。こうして見事な作品として蘇ったことを喜んでいる。
(50)古家新<巴里郊外>:
 阪神大震災以後、大阪や神戸の経済界は相当なダメージを受けた。大阪市立近代美術館の建設も宙に浮いたままである。そうしたことが地元大阪の重要な画家たちの支持基盤をも打壊してしまった。バブル景気破たん後の絵画不況の所為でもあるが、何か必要以上に無視されてしまったような気がする。古家新などはその荒波に不当に揉まれている画家のひとりだろう。大阪の会社で飾ってあった作品などが大量にオークションで処分されるなど、相場を下押しさせる要素ばかりで、私などでも所蔵の古家作品を画廊に飾ることも気が引けるほどだ。ここは辛抱のしどころ、いつかは彼の良さが陽の目を見ることもあろうと願っている。
(51)園部邦香<国祭り(パリ)>:
 最近のオークションに園部の他の作品が、作者不詳として出品されていた。画家の地元のコレクターか画商の誰かが買い求めてくれているとよいのだが、これといった入札価格にもならなかったところをみると、多分誰の目にも留まっていないのだろう。本作を見ても決して巧い画家とはいえないが、楽しめるモチーフであることからコレクションの1点としている。
(52)秋口保波<セーヌ河より塔を望む>:
 前述の国松桂渓の例もあるが、滋賀県出身の洋画家は野口謙蔵を別にして、世間で知れ渡る機会が少ないのは残念なことだ。秋口と同じ彦根出身の大橋了介がかろうじて芦屋市立美術館で顕彰され、大津出身の黒田重太郎の遺作展がようやく滋賀県立近代美術館で実現したくらいだ。本作のような小品で秋口の画業を代表するのは大変気の毒ではあるが、今はこれしかないから我慢していただくしかない。
(54)木村磐男<南仏カーニュ・アルプスを望む>:
 当方のホームページを見た方から電話がかかった。岡山在住のコレクターで地元出身の画家の作品を集めているが、木村磐男の経歴を教えてもらいたいとのことだった。第2回目の滞欧作品展に出品したときの資料しかなく、それを知らせたが、今回も同じ資料のみの紹介となった。国画創作協会展(洋画部)に出品しているし、京都の地名がいくつかの出品作品の題名に使われているところから、京都に居住していた公算が大なのに、私の力不足でまだ詳細の調査が宿題のままである。
(55)酒井精一<南佛風景>:
 よく知られているカ−ニュの風景である。ところが他の洋画家の油絵のようなめりはりという点では少し迫力に欠ける。画家の経歴を調べてみるとおぼろげながらその理由に思い当たった。師は石井柏亭であり、出発点となる研究所が日本水彩画研究所ということだ。なるほど水彩画的な油絵ならこのような仕上がりとなっても仕方がない。
(59)柏原覚太郎<プロヴァンスの春>:
 柏原が戦後に参加した行動美術協会の出品作からは想像もつかないような絵である。今回の図録のために写真撮影しながら、明るい陽射しのプロヴァンスを、フォーヴのタッチで力強く、しかも気持ちよく描けていると改めて惚れ直した。
(60)三雲祥之助<マジョルカ島デア村にて>:
 1982年に生前の三雲と本作の由来について手紙のやりとりをしたことがある。ショパンがはげしい恋物語の相手ジョルジュ・サンドと逃避行をした地として知られる、スペインのマジョルカ島の西部地方の山村風景だ。「人口2-3000人のところに毎年アメリカや欧州から20名以上の画家がきて仕事をしている変な村。デアから坂道15,6分歩いて浜にむかう所を描いた、毎日オリーブやグレープなどの堅いみどりに疲れた時に、このポプラの緑がやさしく感じられたからでしょう、そこで2枚描いた記憶がある」「どこか素人くさい絵ですが、気持ちはわるくないので大切にしてやってください」と三雲は書いている。久し振りに絵を倉庫から取り出してみた。どこかセザンヌの絵を見ているような気がして、うん、なかなか気持ちのいい絵だ、名作だなぁーと合点している。
(61)伊藤慶之助<ホントネーの丘>:
 関西洋画壇の生き字引といわれた伊藤とは電話で数度おしゃべりをした以外、お目にかかったことがない。初期の頃の絵が好きで何点も所蔵しているが、1985年の西宮市大谷記念美術館での遺作展開催の後で、とりわけ珍しい初期作品2点と本作とを交換した。美術館は画家からたくさんの作品を寄贈してもらったが初期のものを補充する必要があり、私も伊藤の滞欧作が欲しかった。大阪の洋画家たちの不幸については古家新の項でも触れた。どうにもならない閉塞状況は、コレクターたちがほんの少し意識を変えることで蘇るはずだと考える。今が作品の買い時だと思うのだが…。
(62)石井弥一郎<巴里市外ニユイ風景>:
 石井に限らず画家の没後に刊行される遺作画集が、その後の研究活動の根幹資料となることが多い。ところが残念なことに『石井弥一郎』画集だけは、年譜の作成がかなりずさんで、私の調査資料と突き合わせて確認するのが大変だった。年譜では大谷大学の教授になったとあるから、同大の教職員名簿を調べても名前が出て来ず、様々な展覧会の開催年が不正確だったりする。他山の石としたいところだが、本展のようにたくさんの画家たちの年譜を略年とはいえ揃えるのは大変な作業だ。たくさんの校正ミスや原本の写し間違いなどもあるだろうと心配している。それはそうと肝心の石井の作品だが、ちょっといい雰囲気ではありませんか。現場スケッチの瑞々しさや絵筆の躍動感は、音楽に例えるなら何がよいだろうか。ちなみに署名と年記は裏面にある。
(63)瀬崎晴雄<Valee(谷)>:
 本作を入手してからおよそ25年になるが、長い間、この作家についての情報が得られなかった。色彩感覚が他のどの日本人画家の滞欧作とも異っているので、無名画家とはいえ気掛かりでならなかった。1994年に上山二郎(吉原治郎の師)の展覧会を手がけた芦屋市立美術館の河崎氏に写真を見せて調査を依頼した。彼の守備範囲の画家だろうと考えた私の感は適中し、かなりの情報が得られることとなった。1998年に徳島県立近代美術館の江川氏が企画した、昭和初年頃の巴里で活動した、バロン薩摩と一群の日本人画家たちを回顧する展覧会で初めて紹介された。ちなみにその続編となる展覧会「エコール・ド・パリの魅力ー個性の輝きと滞仏日本人画家群像」展が、今夏より全国5ケ所を巡回する予定である。今から楽しみにしているところだ。
(67)アンドレ・ロート<裸体>:
 大正期の滞欧日本人画家たちの多くがその影響を受けた画家であり、知名度もあるのに、残念ながら日本でその全貌を見る機会がない。それどころか経歴や資料を捜すのもひと苦労のありさまだ。今回の略年譜の作成も、滋賀県立近代美術館で黒田重太郎展を担当された学芸員、田平氏に力を貸していただいた。実は画廊の書架には、随分前に入手した『ロート画集』(1921年にパリで発刊された100限定の46番のもの)があるのだが、フランス語が読めないから図版をぺらぺらとめくり返すしかなかった。ひょっとしてこのカタログは非常に珍しいものではないのだろうか。ちなみに本作の裏面にB.Weillという人物の作品極めが次のように書かれている。「Andre' Lhote 38 rue Bouau Garantipar B.Weill」黒田重太郎の<港の女>(東京国立近代美術館蔵)や、当画廊が京都国立近代美術館に納めた<マドレエヌ・ルパンチ>などと一緒に陳列すれば興味深いものとなるだろう。
(68)シャルル・ゲラン<室内婦人像>:
 ロートやビッシェールと共に日本の洋画家たちの指導者として知られるが、ゲランの実作品を目にする機会がほとんどない。霜鳥之彦の生前に、浅井忠の作品の鑑定が目的でお宅にお邪魔したことがある。通された応接間に霜鳥が描いたゲランの肖像画(1923年)が飾ってあった。生涯の師と仰いでいたのだろう。本作を見ていると、霜鳥の作品との類似性がよく分かる。師匠の画風を、構図から明暗の色調までよく習熟したものだと思う。付け加えておくが、こうした絵画の類似性を何ら恥じることはない。画家が先人に学ぶところは学び、自らの画境の深まりを図ることが非常に重要と認識されるべきだからだ。

霧島之彦「ゲランの肖像」

(69)(70):ブルリューク<富嶽、少女、猫など><富嶽山水図>:
 未来派を日本に紹介したロシア人画家ブルリュークは、美術史の関連本や展覧会カタログなどで散発的に紹介されるだけだった。兵庫県立近代美術館に所蔵されている作品は、未来派らしくない家族の群像作品である。日本には彼の画業を代表する作品はないのだろうか、いつも不思議に思っていた。例の阪神淡路大震災後、様々な作品が廃虚の街から救い出されて大阪や京都の美術市場を賑わしたことがある。古美術商や古書籍商の倉庫にはこれから数十年間仕入れを何もしなくてもすむ量のもので一杯だとも噂されていた。事実それから古書籍の相場が暴落したように思う。参考図版で紹介している<ジプシーの女>(京都国立近代美術館蔵)も、そうした流れの中で美術市場に売りに出されたものだ。あの時一緒に売り出された掛軸などには、焼けこげた跡なども生々しくあった。間違いなく神戸方面の旧家の解体時に救出された作品 に違いない。購入した作品を修復し額装を入れ替えた。その後 <ジプシーの女>は、ブルリュークの未来派的傾向を如実に伝える貴重な作品として方々で紹介されるようになった。時を同じく京都の美術市場で、震災荷物の一群に混じって出て来たのがこの2点の掛軸である。たくさんの荷物の中に紛れていた掛軸を、不覚にも私は見逃していた。あの時、顔見知りの古美術商が「ここに星野さん向きの絵があるよ」と声をかけてくれなければ、また闇の世界に戻って埋もれてしまった作品である。記録されている制作年月日から調べ直すまでは、ブルリュークが京都の高島屋で未来派の展 覧会を開催していたことなど全然知らなかった。

(71)ロジェ・ビッシェール<薔薇を持つ婦人像>:
(21)国松桂渓の項で少し触れたが、国松は本職のカメラマンの如く大型写真機をかついで方々の史跡を撮影したほか、自らの絵の師匠であるビッシェールの作品を数多く撮影していた。ところが写真の説明書などが一切なく詳細は不明のままで放置されている。彼の画歴さえも日本の美術研究家は誰も調べてはいなかった。それほど無関心のままにしておいてよい画家とは私は思わない。大正期の日本の洋画家が滞欧中に師事したり、二科展にも作品が出品されていたことから、名前だけは方々の画家の年譜に登場する。昨年開催された黒田重太郎遺作展(滋賀県立近代美術館、佐倉市美術館)のきっかけを作った、大手前女子大学の戸村氏の黒田重太郎の研究論文が、やはりビッシェールに触れていた。本展の略年譜の作成時、ビッシェールの項では氏に助けを乞うた。
(72)ピンクス・クレメン<裸婦>:
 昨年11月、山下りんとロシア・イコンの研究で著名な、岡山大学美術史の鐸木通剛氏がひとりの研究者を画廊に同道された。ワルシャワ国立美術館関係者でもあるワルシャワ大学マリノフスキー教授だ。しばしの歓談中に、私はふと倉庫に放置したままの本作のことを思い出した。十数年ほど前、平瀬啓三という京都の洋画家の遺族関係者から、平瀬が亡くなってから荒れ果てた家がもうじきにひと手に渡ってしまうので、一度重要なものがないか鑑定していただきたい、との要望が寄せられた。その家は最早がらんどうの有り様で、既に大半の備品なども処分され空家に近い状態になっていた。本作は、吹き抜けの台所の入口に増設された納戸に、平瀬の描いた油絵の自画像数枚とともに立て掛けてあったのだ。平瀬は関西美術院で洋画を学びパリに留学した。滞欧中に絵画修行と共にヴァイオリンの修行をしたらしい。帰国後は自宅の開放的な洋風アトリエを文化サロンのごとくに活用し、ヴァイオリンを教えながら、絵画の方を趣味として晩年を暮らしたそうだ。本作がどのような経過でもたらされたものか資料は一切ない。ただ作品が平瀬の帰国に際し木枠から外してぐるぐる巻にして、持ち帰られたものであることは分かる。平瀬とパリで交遊のあった画家の作品だろうと私は思った。見なれぬ署名や画風からはどこか東欧の匂いがした。平瀬が同じようにパリに留学していた東欧の画家と知り合い、作品の交換でもして日本に持ち帰ったものだろうと推察したのだ。その後、長い間、作者不詳のまま倉庫に放置していた。
 教授がポーランドの美術関係者であることから、電撃的に閃いた。「そうだ、あの絵を見せよう!」あっけにとられる両氏を画廊に残し、階上の倉庫から例の裸婦像を引きずり出して見てもらった。直感は当たった。教授は驚いたように言った。「ピンクス・クレメンの典型的な作品です。ユダヤ人の彼がフランス時代に描いた作品が、ワルシャワ国立美術館でも回顧展を企画するなど、どんどんとポーランドに里帰りしていますよ。」と。教授は帰国後、クレメンの資料を送ると約束し実際に11月末に送ってくれたらしいが、どうやら船便で送ったそうで、まだ手許に届いていない。仕方がないからインターネットで検索すると、かなりの分量でヒットした。英語表記もいくつかあった。ユダヤ人画家としてイスラエルでも評価が高まってきているのか、オークションにもたくさん出ている。関連サイトにスーチンの名前に出くわした。さっそく日本でのス−チン展のカタログを読み見直して、本展の略年譜が間に合ったところだ。最後に、平瀬氏の父親は「貝博士」として有名な平瀬輿一郎(介翁)で、鹿子木孟郎が描いた<書斎に於ける平瀬介翁>(1915作)が、同家から京都国立近代美術館に寄贈されている。


(73)ジエレニフスキ−<丘の上>:
 この画家もポーランド人だが、ユダヤかどうかは分からない。スイスを本拠に活躍した画家である。石井柏亭との交遊があって、大正後期から昭和にかけて二科展には毎回のように作品を送ってきていた。京都市の図書館の楼上でも個展を開催したことがある。そうした縁で本作が京都にあったのだろう。絵の裏面に何やら地名などが書いてあるが、さっぱり分からない。岡崎の閑静な住宅街にある町家で、髭づらでどこかキリストのような顔の外国人画家、ヘルベルト・サックス氏が日本女性と結婚して暮らしていた。着流しに下駄とその風貌から皆に親しまれていた。墨絵をたしなみ、カンディンスキ−風の抽象画を個展で発表していた。当画廊で京都の環境問題や画論など、話し込むことが何度もあったが、「何故ならば・・・」で始まる彼の堅苦しい日本語に閉口したものだ。

新発見のクレメンと
鐸木氏、
マリノフスキー氏
筆者(左から)

京都の景観がどんどん破壊されてゆくのを見かねて、とうとう数年前にスイス本国に帰って行った。その後も、早くスイスに遊びに来いと何度も催促されている。彼が離日に際して挨拶に来られた折に、本作の裏面にある署名などを読み下してもらった。
(74)大橋エレナ<静物>:
 エレナがパリで結婚した大橋了介の作品を随分前に入手したことがあった。その頃の大橋の評判といえば、パリで佐伯祐三まがいの絵を描いた画家ということだ。大橋の作品のいくつかが、署名が改ざんされて佐伯祐三の作品として出回っていると古参の画商から聞かされた。たまたま佐伯の同時代に同じ所を同じようなタッチで描いていたことから、本人の知らないうちに偽作の作者とされてしまっていたのだ。大橋の作品が佐伯の作品として出回ることはまだ理解の範疇であるが、一時世間を大騒ぎさせた「大量の佐伯祐三の作品新発見!」の報道には驚いた。今だから言うが、その報道の前に一連の作品のスナップを京都で見せてもらったことがある。随分乱暴な筆使いで下手くそな絵ばかりだった。木枠からはずされたままの絵は、写真だけでは制作年は判別できなかったが、到底佐伯や大橋のレベルに達していない代物だった。佐伯
スタイルの油絵は彼の死後も多くの日本人画家の心をゆさぶり、ミニ佐伯祐三が全国に発生しただろうことは容易に想像出来る。そういう人たちと大橋了介とを同列にしないでくれと、いつかも書いたことがある。芦屋市立美術館で大橋了介・エレナ回顧展が開催されてから既に13年にもなる。大橋夫妻の出会いとその後の二人の足跡を追うことで、日本、フランス、そしてブラジル各国での文化交流の軌跡の一端が明らかとなる筈だ。

このウインドウを閉じる

Copyright (C) 2003 Hoshino Art Gallery All Rights Reserved.