画室で生まれた生命(いのち)の彩(いろ)
瓶 花 静 物 コレクション
2007(平成19)年 7月7日(土)〜8月4日(土)

瓶花静物−新たな美しきもの      星野万美子


〔はじめに〕
 天上の香しさを放ち華麗にして可憐に咲く地上の花々、それに太刀打ちできるもがあるだろうか。もの言わず人がたやすく持ってしまう傲慢のかけらも持たない、そんな健気さに惹かれて切っても切れない関係を作ってきたのは、虫でも鳥でもない、私たち人間だろう。ときにその美しさに嫉妬さえ覚えながら荒ぶる私たちの不変の癒しとなってきたのは花々であった。人は居るところ常に花を置き、嬉しい時も悲しい時もハレの時もケの時も、それが運命であるかのように深く関わり、花は応えてどの人にもどんな場合にも似合ってくれるのである。大地は花を咲かせ、人の歴史あるところ花があった。

 生あるもの必ず死す、それを如実に静かに教えてくれるのも花である。花のいのちは短く、故に爛漫と咲くのだろう。同じく限られた生を持つ人間は、ただあるがまま受け容れるに忍びず、それで済まされないと思い始めたのだろうか。花の美しさを飽くなく生かそうとして園芸品種を生み、心おきなく花に囲まれる暮らしを実現させた……はかなさを忘却の彼方へ追放してしまうばかりに。一方では、豊かな感性と深い思考と巧みの手を駆使して花の命の盛衰を捉え、その類い稀なる素晴らしさを練り上げ美術作品を産むのである。切り採られ瓶に生けられた花が画家の心眼をくぐり抜けると、実在の華麗な姿と甲乙つけがたい新たな美しきもの、新境地の芸術に昇華していく。私たちは、そこに留められた花の溢れる命と込められた示唆を心の琴線に触れさせ、創造の世界を広げ、大きな楽しみに浸れる。


[花と人、運命の駆け引き]
 一口に花と言っても野生種と園芸種があり概念を一緒にはできない。雑草とか野草とか山野草という名の草花はなく、野生の一木一草は、正式な名前を冠した原種または自然条件下での交雑種で、他から明瞭に分つべき特性と美しさとを夫々備えている。「護る」ということの第一は無闇に採取しないことである。園芸種がかくも氾濫している理由は、野生種を採取せずに遺すためでもあるのだ。私たちは、専門家が園芸種を作る基にする最小限以外は野生種には手を下さず、園芸種のみを育成し繁茂させて楽しむことにしている。採集をせず耕作した物を食べようという考えに等しく、花を育て花を楽しむ人の第一のエチケットなのだ。他方、野山に出かけて自然のあるがままの花を観て楽しむのも大きな歓びであり、どちらも温かく人を癒してくれるだろう。花というものはこの両局面で捉えていかなければならない。

 今年は熊が冬眠できない暖冬と菜種梅雨もないうすら寒いだけの春で終わり、冬の厳しさで体力を蓄積し春の光と雨に目覚めていくはずの植物にとっては異常な状況が続いた。でもやっと薫風の季節が来てくれた。待ちきれない春を追っかけてやって来る薫り高い風なのに、突風や熱風になり、黄砂や酸性雨、空気汚染を運ぶのが心配である。花々はそれを知ってか知らずか光の季節を謳歌しているように見える。その裏では地球の異常事態に対応しきれなかった繊細な植物もあるのだろう。そのようなことがいずれ絶滅の危機に繋がっていると思うとぞっとするが、たおやかに見えても生き物である花々は案外強いところがあり大抵は逞しく対応してくれる。でもこういう期待は長続きしないのは目に見えている。

 我家の庭でいつもなら冬の寒さに当たって花芽分化するルピナスに花芽が上がってこない。他に原因があるかもしれないが、多分寒さが足りなかったのだろう。このルピナスは次の寒さを待とうとしても夏を超えることはできず、花を咲かせ種子を宿す本来の姿を全うすることなく静かに枯れてゆくのだろう。園芸品種のめざましい改良技術は、将来こんな難問もあっさり解決するかもしれないが、それでいいということではないのだ。
 もし花々が毎年咲いてくれなかったとしたら、自然の掟である季節の巡りと、生きている鮮明な証(あかし)をひしと肌に感じることができるだろうか。花々を咲かせるにはそれに至る摂理があってのことだが、そんな見えないルールを勝手に犯し、異常気象を招いて暴れまわっているのは誰だろうか。もし花に役目があるのなら、人を喜ばせ慰めるだけではないはず。繁殖目的に虫や鳥を呼ぶにしては美し過ぎ、惹きつけて離さない魅力の秘密にはきっと何か他の魂胆があるに違いない。その強力な武器は、自然を犯す第一の犯人である人間と関わるため、自然界の摂理を無言で教えるため……花はそんな役目を請負っているのではないか。花と人とは切っても切れない関係を結びながら、本当は互いにひしめき合う駆け引きの運命まで背負っているのだろう。


[ボタニカルアートと静物画]
 地球とそこに住む人の営みを豊かにしてくれる花々は、人だけが為す「描く」こととどのように関係してきただろうか。絵画特に静物画の世界にどのように登場し、どのように変身していくのだろうか。
 花を描いた絵として、静物画とは区別してボタニカルアート(植物画)がある。花の肖像画と言われもする。初夏、我家の庭で「ルドゥーテ」というバラがしなやかに咲いた。はんなりした京都らしい色合い(ソフトピンク)と、くしゅくしゅとして華やかなイングリッシュローズ特有の花姿のミスマッチが何とも言えない魅力を醸し出す。「ルドゥーテ」は、イングリッシュローズの育種家デイヴィッド・オースティンが「バラの画家で最も有名」としてその名に因んで名付けたバラである。ベルギー人ピエール・ジョセフ・ルドゥーテは、フランス革命の頃王妃マリー・アントワネットの博物コレクション室付き画家を務め、その後近代バラ育成の進展に功績大のナポレオン一世第一妃ジョセフィーヌのお抱え絵師になって、かの有名な『バラ図譜』(1817〜24)を描いたボタニカルアートの大家である。

 ツッカリーニと共に『フローラヤポニカ (Flora Japonica)「日本植物誌」』(1835〜1870)を著したドイツ人でオランダ商館医のシーボルトは、植物画を川原慶賀などの日本絵師やC・H・ドゥ・ヴィルヌーヴという画家などに描かせている。植物の標本と共に正確に緻密に草花の姿を写したもの(図譜、図鑑)として植物の研究や保存にとって重要なものであるが、才ある画家は懸命にデッサンし、そのデッサンの素晴らしさが自ずと芸術性に溢れたものに仕上がっていくのは当然であろうし、当時ボタニカルアートが最盛期だったヨーロッパに於いては説得力のある芸術性は最重要視されたのである。
 ボタニカルアートは「花を描く」ことの一分野を占め、学術的にも重要な役割を果たすことに間違いないが、静物画とは性質を全く異にするものであろう。花の静物画を見る時は、花とその花を目にした画家との対峙、画家の体内を通り抜けていく時の真剣な対峙があっての所産、そのような静物画を私たちは望んでいる。その見方感じ方が芸術の本懐であり幸せな絵画の楽しみ方だと思うが、そういう楽しみ方は近代的と言えるかもしれず、花が主役となる静物画の歴史は案外浅いようである。

[静物画の歴史に見る花の表現]
 そもそも静物画は、神話画、宗教画や歴史画が幅を利かせる中世にあっては重要なものではなかった。肖像画は生きている人を描くから「生きている自然」、それに対して静物は「死せる自然」とか「動かざる生命」「ヴァニタス(虚栄)」と呼ばれる扱いを受け、特に花は主題の装飾として、或いは宗教上の道徳上の象徴とアレゴリー(寓意)として描かれることが多かったのである。絵が宗教的道徳的教育的に描かれ、何かを説明していることが重大だった中世に於いては、真に迫る神々しい絵であると同時に、絵の持つ意味や象徴するもの、或いは寓意が大切であった。
 花はいろいろな意味を持っていたので描かれたが、主人公や主題を表すもののアトリビュート(持ち物)としてである。例えばボッティチェリ<ヴィーナスの誕生>(1485〜86)に於いて、ヴィーナスの廻りを舞っているのは「ロサ・アルバ・セミプレナ」と言われているバラの花である。海からヴィーナスが生まれた時、バラも一緒に生まれたとか大地が同じ美しさを誇るバラを産んだとされる。バラはヴィーナスの聖花で美と愛と生の歓びを象徴し、ヴィーナスのアトリビュートはバラに決まっていて、ルネッサンス期を迎えたこの時代でさえ、そういう決まりを押さえた絵画がまだ当たり前だったことが分かる。

 「花瓶の花」というジャンルを開拓したのはフランドルのヤン・ブリューゲル(父)(16c~17c)と言われているが、宗教画が重きを成していたヨーロッパで、プロテスタント信仰のオランダやベルギーでは、宗教画よりも風景画や肖像画等と共に静物画が発達したのは特異な点である。細密描写で以って迫真的に描くことが当時の特徴であった。
 私たちは静物画と聞けばセザンヌを思い浮かべることも多い。それまでの絵画によく見られる「主題の意味すること」に捕われるのではなく、自由な発想で題材を選び、対象物をくまなく観察し、画面の構成、色彩や造形に大きい力を注いで知的感覚的に優れた芸術性を追求した近代静物画の父である。アンリ・ファンタン・ラ・トゥールやオディオン・ルドン等もそうだが、本格的に花が主役となるのもこの頃からではないだろうか。セザンヌの花はまわりと見事なマッチングを果たし知的で計算されたクールな美しさに変身している。ゴッホのアイリスやヒマワリは目を奪われる強い美しさに満ち、死して永遠の命を勝ち得た。静物画が素晴らしさの芽を吹くのもこの頃からで、その後、静物を一旦分解して再構築すること(キュビズム)やコラージュを施すことなど多方面へも進展し、絵画の重要な分野を占めて今日に至っている。

[余裕の中にこそ花]
 花を主役とした静物画の歴史が浅いからと言って、花が西洋社会に於いて人との結びつきが希薄だったのではない。3300年前のエジプト王家の谷から発掘されたツタンカーメンの棺には、妻アンケセナーメンが添えたであろうヤグルマギクの束が鮮明に遺っていて人々を驚かせた。1960年、アメリカ人ラルフ・ソレッキが、イラクのシャニダール洞窟で6万年前のネアンデルタール人の遺骨を発見した時、8種の花粉が付着しており、死者を花(アザミ、タチアオイ、トクサ、ノコギリソウ、ノボロギク、ムスカリ、ヤグルマギク、ルピナス、或いはその近縁種)と共に葬っていたらしいことが分かった。ネアンデルタール人は現生人類以前の古い人種で我々の直接の先祖とは言えないそうだが、混血しているかも知れず、少なくとも埋葬行為をして死者に花を添えるという人間らしいことをしていた。 
 太古からおおらかに花との関わりを持ってスタートしたにも拘わらず、長い暗黒の中世に至っては、花の存在は花そのものを描くことに到底繋がらなかったようだ。戦いに明け暮れ、厳しい掟に縛られ、生きることに必死である状態で、人を癒し人を飾り人に「花を添える」行為をすることはあっても、それ以上の関心を寄せる余裕などなかったのか、花を慈しむというような豊かな感性は例えあっても、余裕の中からこそ進展させることができるのかもしれない。中世では、室内に花など全く置かない生活が普通だったとも言われている。花は神への捧げ物、或いは権力の象徴と言わないまでも特別のものという感が強かった。花はルネッサンス期以降庶民にも浸透し始め、産業革命後は世界中を駆け巡って往来し、今日の盛んな園芸の基礎が築かれていく。


[日本では違う花への思い]
 日本の絵画の伝統に於いては、「花鳥風月」という言葉が表すように絵に登場させる花への概念が自由自在、西洋発の油絵とは事情が違うようだ。私たちには切り採った花を「死せる自然」と見なす考えがない。切り採った花を生花と呼び、茶の湯に一輪の季節の花を必ず添え、生け花を文化として発展させてきた。日本人は、自然界や庭にある花も、切り採って室内に持ち込んだ花も、それが確かに花の生死を分けているのかもしれないが、多分に鷹揚に考えている。茶の湯では「花は時の賞玩(しょうがん)」と考え、花の命のはかなさゆえ生の喜びを誘うのだとして、また生け花では花の美しさを如何ようにでも生かして愛でて楽しむ、そういう風に関心が向くのである。
 生け花とフラワーアレンジメント……その言葉の使い方にも違いが表れている。生け花は、自然の中にある花の理想的な姿を追い求め、まわりの空間や空気や風や季節をもひっくるめて、つまり自然を凝縮した美しい形で花を生かせてみる挑戦なのだ。花の色合いや組み合わせをアレンジして花々が全体で醸し出す豪華な新たな美しさを楽しむのが西洋発のフラワーアレンジメントで、どちらも素晴らしい楽しみ方だと思うが、そんなところにも、花への思いの違いが感じられる。
 油彩で静物画のひとつの大切なジャンルとして描かれる瓶花は、昨今の私たちにとっては親しみ深いものであり、また花鳥風月を尊び生け花を芸術にまで高めた文化を持つ日本人は、すんなりと自然に受容して更なる楽しみ方を知っていると言えよう。私たちは古来自然を友とする楽しみ方に長けており、それは国の資源が乏しく生活に困窮して他に楽しみがなかったからだと言われたりもするが、逆ではないだろうか。豊かな自然に恵まれている余裕の中だからこそ花鳥風月に対する感性を発達させることができたのであり、そこに世界から注目される日本文化の奥深い素晴らしさが潜んでいるのではないだろうか。

[日本の椿、カメリア・ジャポニカ]
 西洋で聖花やシンボルになった花があるように、日本にもそれに似たような花があるかと言えば、ツバキはそのひとつであろう。ツバキ(椿)は我が国原始の信仰において、山の民が里に降りて春を言触(ことぶれ)る時に持ち歩いた木であり、太陽が弱まって大地の生命力が枯れるとされた冬12月頃から咲き始めるゆえ、明るい春を予祝する文字通り「春の木=椿」(椿は漢字ではなく和字)であった。一年中緑の照葉を持ち冬に花が咲くことは、あかあかとした大地復活と共に、あまねく永久の神霊の暗示と考えられたのである。「言霊(ことだま)の幸わう国(言葉の霊の霊妙な働きにより幸福の生ずる国)」である我が国では、言葉には霊力が宿るとされ、ツバキは言霊を宿した木であった。世界遺産である熊野にはツバキが多く、熊野信仰が興る環境を古くして整えていたとも言え、ツバキは熊野のシンボルのようにもなった。
 冬になるとカンツバキ(寒椿、「獅子頭」はその一種)が庭木や垣根で街中そこかしこに咲いて賑やかしてくれる。ツバキとサザンカの交配とされる人気種で、私の父母は「冬生まれで少し小さい子だが寒さにめげず花を咲かすように」と私の誕生を祝って「天神さん」で買い求め記念樹にしてくれた。父が挿し芽してくれたその2代目が自宅の庭でもう立派な木になり、毎冬寒さにめげずあかあかと咲いてくれる。ツバキは日本原産でヤブツバキやユキツバキ等の野生種から一万以上と言われる園芸品種を生んでいる常緑広葉樹で、サザンカ(山茶花)やチャ(茶)も仲間である。「光沢がある」という意味の古語「つば」や「艶葉木(つやはき)」からツバキになり、カメリアという呼び名は、18世紀中頃チェコスロバキアの宣教師カメリアによってヨーロッパにもたらされ、リンネにより命名されたものに依る。京都では「京椿」と親しく呼び、古木を大切に保存している寺には300歳を越えるみごとな日光(じっこう)椿がある。

 茶の湯や庭園の文化が発展した桃山時代の美意識は、ツバキを庭木として飛躍的に流行させたが、それは昔からあったツバキの意味する強さと共にその美しさを再認識したからだろう。江戸初期には改良が盛んに行われて輸出され、カメリア・ジャポニカは19世紀ヨーロッパでブームを起し、日本は世界に冠たるツバキの王国になった。茶の世界に於いては、ツバキは色、咲く時期、種類の多さで、特に冬から春にかけての花の王者であり、ツバキ材の木炭は最高級として好まれる。利休は白い花を好んだらしいが、赤や桃や絞りの花、紅白の取り合わせなど、侘助、白玉、曙、西王母、太郎冠者など奥ゆかしい名前と共に、味わい深く欠かせない花になっているのだ。お茶の席では「侘」「寂」とゆかしさを重んじて一重の花が喜ばれるが、最近はセイヨウツバキの豪華な八重のもの、黒に近いもの、黄色のものなど出回りツバキの世界も華やかで楽しいものになっている。

[シーボルトと紫陽花]
 アジサイは、ユキノシタ科の落葉低木で、梅雨の頃、土が酸性だと青くアルカリ性だとピンクに咲き、咲き始めから終わるまで印象を変えるので「七変化」とも呼ばれ不思議に思った人は多いだろう。お釈迦様に掛けるアマチャ(甘みのある葉を煎じてお茶にするもの)も仲間である。「あづ」(集める、の意)と「さあい=真藍」(真っ青、の意)からアジサイと呼ばれるようになったらしい。また唐の白楽天の詩にある紫陽花をアジサイとしたのは言い当てて妙だと思うが、実はふたつは別ものらしい。
 シーボルトが『日本植物誌』の中で紹介した日本の植物で有名なのはオタクサ(Hydrangea Otaksa)でアジサイのひとつである。シーボルトの妻である楠本滝は日本流に呼ぶならば「おたきさん」で、彼もきっとそう呼んでいたのだろう。愛妻がどこかのお寺で手折って来てシーボルトに渡したという手鞠のような花は、眉目麗しいお滝さんの愛らしい仕草と共に、見たこともない美しさであった。たどたどしい日本語からオタクサになってしまったが、愛妻を偲んで名付けたそのアジサイは日本女性のイメージと共に海を渡った。今でもライデン大学付属植物園で当時生きたまま持ち帰った植物が受け継がれて保護され栽培されているらしいというから凄い。日本への思慕を搭載した日本の花たちは彼自身が考案した通信販売によって西洋に広まることになった。アジアと南北米に分布している約30種のアジサイの中で12種が日本自生らしいから、まさにアジサイは日本の花と言えるのだ。今では西洋で品種改良されてきたセイヨウアジサイはじめいろんなアジサイが多品種作出されて世界中で人気が途絶えることはない。

 梅雨にはまだ早いが、庭の少し日陰でシチダンカ(七段花)が可憐に咲き出し、この花を見ると私は心が洗われる。シーボルトが紹介した何種類かのアジサイのひとつなのだが、1959年に六甲山で発見されるまで実物の所在が長い間わからず、幻のあじさいと呼ばれていたものである。地味で小さいが、飾り花のガクが八重化して凛と咲く姿はいかにも楚々としたヤマアジサイで、手鞠のようなアジサイと全く違った風情である。神戸の人たちが一生懸命に、小学生が学校の庭で熱心に、大切に繁殖させてくれたおかげで蘇ったのである。私も手元に一株置き、ご近所に挿し芽しておすそ分けしたりして大事に育てているが、それは今となっては神戸の復興のシンボルのように覚えひとしお感慨深いのだ。

[西洋に於けるバラ、東洋に於ける薔薇]
 バラは遠い昔から人を虜にし、各時代の何かしらの象徴となり、各方面で第一に登用され、その存在感は特に西洋に於いて絶大と言えるだろう。バラは美しさだけが取り柄なのではない。ほぼ北半球全域に原生する生命力のある木本(もくほん)で、何種類もある香りの豊かさや薬効性そして食用にまでなる、実に有益な植物でもあるのだ。ローマ帝国時代にも盛んに愛され、クレオパトラがアントニウスを迎える為にバラを厚さ20cmも敷き詰めた話はもとより、催事宴会によく使われたらしい。でも当時は種類も少なく手に入りにくい、いわば権力と金持ちの象徴でもあった。現在(2万種とも3万種とも言われ、ローザリアンに依るバラ育種は留まること知らず)と比べられないほど種類も少なく、ギリシャの詩人サッフォーがバラは「花の女王」と呼んだように高貴なものでもあった。女神ヴィーナスの聖花であったり、中世に至ってはキリスト受難(真っ赤なバラ)や聖母マリア(棘のないバラ)の象徴にもなっている。ただマリアはユリと共に描かれることが圧倒的に多く、バラは脇に添えて描かれていたりする。
 花の絵と言えばバラが多い印象があるが、頻度は高くとも、小さな一枝だったり花や花びらだけだったり、背景や垣根がバラであったり、女性の衣服や持ち物がバラの柄……という具合で、バラの持つ意味や存在感が大き過ぎたためだろうか、或いはボタニカルアートに席を譲っていたのだろうか、印象派以降でさえバラを主役にした絵画は意外に少ない。
 そんな状況でイギリス(イギリスのバラ育種はフランスと共に有名)は、一番のバラ好きを裏付けるかのように文学にも絵画にもどこよりも多用されているようだ。「英詩の父、英語の父」であるチョーサー(Geoffrey Chaucer )は13世紀フランスの『薔薇物語』を英訳したのだが、その作品と後々の『カンタベリ物語』(1387)によってロンドン方言が英語に、つまり言葉としての英語の体型或いは基本が確立したとも言われている。それまではフランス語が上流階級の言葉であった。イギリスにとって母国語が確立するという、こんな重要なことのきっかけがバラに恋した青年の話である『薔薇物語(The Romaunt Of The Rose)』であったことは、イギリスがバラに恋をすることになる暗示であったのだろうか。バーン・ジョーンズがこの英訳された『薔薇物語』を絵にし、また彼は『いばら物語(眠り姫)』を描いているが、いばらとはバラのことである。赤バラ(ロサ・ガリカ・オフィキナリス)と白バラ(ロサ・アルバ・マキシマかロサ・アルバ・セミプレナ)を掲げた30年に亘る王家の戦い(バラ戦争1455〜1485)の後、両バラを合わせたチュードルローズの紋章ができた。かのエリザベス一世の象徴は(ちょっとイメージが合わないが)バラ、イギリスの国花もバラで、その入れ込みようは大変なものである。

 フランスでは元来人物画が好まれ静物画の地位は低かったのだが、シャルダンの登場で、その見事な写実性は静物画が評価される気運を起こした。アンリ・ファンタン・ラ・トゥールはフランス人でありながら「バラを描いた華やかな静物画」でイギリスで成功したのである。ギュスターヴ・モローは散りかけたバラを描いて死や老衰の悲惨さを象徴したと言われるが、これは17世紀オランダの静物画の影響を受けたものである。バラを「死せる自然」の代表みたいに描くなんて、愛される花の代表になったバラにもこんな苦難があったのかと思われる。
 薔薇の面目躍如になるかどうか、東洋では薔薇が普通によく描かれる。中国では、竹と薔薇の組み合わせは群芳祝寿を表すという。薔薇は四季開花するため月季花とか長春花とも呼ばれ、壮健や不老長寿の吉祥文として多く描かれるようだ。そこには象徴は強く感じられるが、生きているとか死んでいるとかのこだわりは見当たらず、それは日本でも同じようである。
 薔薇は日本に原生しており、『万葉集』では「宇万良(うまら)」、『枕草子』『源氏物語』『古今和歌集』には「薔薇(さうび)」として登場、正倉院御物の象牙製のものさしや箱にも薔薇が描かれているという。また十二単衣のかさねの色目で薔薇は表が紅、裏が紫の夏用となっている。宇万良(うまら)、茨(うばら)は日本原産のノイバラ(ロサ・ムルティフロラ、たくさんの花が咲くバラの意)、薔薇(さうび)は中国原産の蔦性の四季咲きコウシンバラ(長春薔薇、ロサ・キネンシス) を指すと言われるが、この両者は後々ヨーロッパに渡り現代バラの立派な祖先になった。現在相国寺の美術館で展示中の伊藤若冲に素晴らしい薔薇がある。若冲のライフワークとも言える貴重な<動植綵絵>30幅連作の一点に、庭のみごとな3種の薔薇(紅八重、白一重、薄桃半八重ですべて蔦性、白 一重の薔薇はナニワイバラと思われる)が画面一杯に描かれていて、それは目を見張る迫力だ。その姿は「死せる自然」やアトリビュートの観念からほど遠い、堂々として爛漫、立派な主役としての薔薇である。
 本展の作品の中でもバラのモチーフが圧倒的に多いが、日本人はイギリス人に負けない薔薇好きである。近代のバラは野生種を基にしてヨーロッパで交配を繰り返して改良されたのだが、前にも触れたが、その遺伝資源の多くが中国や日本のものであった。四季咲きの性質を持っていた中国原産のものが改良され現在の四季咲き性バラの基になったのはバラの歴史に於いて画期的なことであったし、日本原産のノイバラはその多花性と強さからいろんなバラの親になった。日本のハマナスや黄バラも海を渡った。北半球全体に原生しているバラだが、東洋に派遣されたプラントハンターのおかげで、東洋の薔薇達が特別活躍して今日のバラ隆盛があるのも感慨深い。東洋と薔薇は密接な間柄なのである。


[自己の投影、花よ永遠に]
 35年ボストンに住む友人からアメリカには「ホスタ(ギボウシ)協会」まであって、種々のホスタを熱烈に愛好する人たちがたくさんいると聞いた時は正直驚いたものである。日本原産のホスタはシーボルトが持ち帰り、特にアメリカで熱心に多品種改良されている。フッキソウ(富貴草)は日本では気に留められることも少ないが、オランダでは日陰の緑として愛され街路樹の根元を覆わせて人気があると聞く。ホスタやフッキソウは花も咲き、葉は斑(ふ)入りの種類もあり強くて美しく、今流行のシェードガーデンで大活躍できる日本自慢のカラーリーフであることを知る日本人は結構少ない。
 恵まれた自然にこそあり得る原産の花々、日本のものはその美しさと強さゆえ世界をまたにかけて活躍している。サクラは言うに及ばず、ツバキ、アジサイ、バラの他にもユリ、ツツジ、フジ、ギボウシ等々日本から海外に出たものは数多いが、逆輸入してやっとその価値に目覚めるというのは頂けない。
 生涯どこへ行こうが花を愛し花を描いた画家は多く、元々豊かな自然と花々に恩恵を受けてきた日本人ならなおのことであろう。花に戯れる蝶にもなってくまなく探求し、花に酔って花の精にもなって潜り込み、花に映した自己を見つめ、ひとつひとつの花に光こぼれる仏性を見て……画家たちはそうして花に自分の心を託し、自己を投影したのである。キャンバスにとどまった花は、限りある命に新たなる美しさを纏(まと)い、永遠に輝くみなぎる力になってゆく。 
 余裕の中でこそ花を愛で、花を描き、心眼を潜(くぐ)った花が昇華していく美しさを読むことができるとするならば、今の私たちほど恵まれている者はいないだろう。もともと青い地球で緑にこと欠かず花の咲き溢れる国を持つ、そんな幸せ者は私たち日本人である。あり余るほどの美しい自然ゆえいくらでも平気で壊している横柄はもう止めなくてはならない。花狂いだとか花きちがいだとか揶揄(やゆ)するのはもう止そう。もっと素直に花々の美しさと息吹を我が命に取り込んでみたら……? 花を真剣に見つめることから始めて、静物画の花に渾身込めメッセージを託そうとした画家たちの声なき声が聞こえてくる。         
                                
                         2007(平成19)年初夏


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