星野画廊で開催した主な展覧会─81_1

  よみがえる百年前の風景「今、水彩画への誘い」

明治期の水彩画―幻の詩的表現  ………………  星野万美子     

 はじめに

 普遍的で単純素朴な問いではあるが、人の暮らしとは何なのか、生きることはどういうことか・・・遠い昔から地球の何処其処で何回も問われ続けてきた、人類の永遠の“解けない難題”だろう。
 絶大な権力を誇ったエジプトのファラオも自分の「死」には勝てず、再生復活を望んでは考えられるあらゆる神々への祈りを欠かすことなく、そのためには贅を尽くし、見えぬ冥界への万端の準備と万能の神への周到なる捧げものを用意して旅立った。どんな智恵をしぼったら恐ろしい死を覆すものになるだろうかと・・・そして必ず再生復活するのだとミイラになって・・・ファラオでなくとも人にとって“死”は最大の難関である。立ち向かう謎や疑問が大きければ大きいほど、また命は必ず限られているゆえに、人は智恵を結集する。その結果が学問や芸術、倫理や宗教などが発達する大きな必然性を生んだのだろう。
 人が自然の一部であると知っても、一旦命を授かり精神を与えられれば、考える力が抜きん出て強い動物である私達は、その奢りからか、死んで自然に還る摂理をなかなか納得できないでいる。底知れぬ恐怖を感じるからである。そんな時、人は自然のうつろいに目を奪われ、その美しさに心を預け、ひとときのやすらぎを求め続けてきた。それは単に逃避しているだけなのだろうか。自然の一部として存在する私達の、“解けない難題”の答に繋がっている唯一の開かれた入り口に立つことなのではないか・・・
 誰もが其処彼処で平等に身近に見ることができる自然の美しさ、といっても煩悩に牛耳られ感じとる余裕をなくせば、全然気づかずに一生を終えることだってあるのだろう。自然は常にうつろい、変容し、違う姿をまといながら、なのに声も出さず訴えもせず、そして久遠の彼方へ脈々と繋がっている。その瞬間の美しさにふと目を留める時、そこに身をそっと置いた時に感じる幸せは、ひょっとしてその永遠の流れに溶け込んでいけるからではないだろうか。限りある命が永遠に繋がっているのだと感じられる満ち足りた瞬間ではないのだろうか。そしてその素晴らしい体験を何とか形にして留め置きたい・・・ 明治後半期の画家達が遺した今なお生き生きとした水彩画を鑑賞すると、そんなことを考えてしまう。

 イギリスのロマン派詩人
 19世紀の華やかなイギリスでロマン派と呼ばれる詩人達が活躍した。文学に限らずロマン主義では、どこにも見当たらない、だけどどこかにきっとある筈の理想の世界や境地を追い求めやっと辿り着いた豊かな心情を表現したが、人の頭脳の中にしかないもの故に、現実から遊離してふわふわとした、どこか甘美な別世界のようなものとして認識されていることが多い。が、迷える私達にとっては決してそうと言いきれない何かを持っている。 「時は春、日は朝(あした)・・・」と上田敏の名訳で紹介されているロバート・ブラウニング(Robert Browning 1812-1889)の「春の朝(あした)」は、美しい自然讃歌としてつとに有名である。空には神がおられすべて世は事も無しとし、自然の恵みと美しさと共に大意に従う平安を謳っている。 自然を目の前に、例えば現実に聞こえてくる鳥達に魅惑され、その歌声を通して霊感をもたらされ、彼方に自然の崇高で深淵な奥深さを見たとされる詩人もいる。ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth1770-1850)は「カッコウ(cuckoo)」の声を聞いて自然の深淵に導かれ、忘我の境地に至った自分を詩に形象化している。パーシー・シェリー(Percy Bysshe Sherry 1792-1822)は「ヒバリ(skylark)」を、ジョン・キーツ(John Keats 1795-1821)は「夜鶯(ナイチンゲール、nightingale)」を聞いてそれぞれの深い感動を詩に託している。 いずれも目の前の自然(例えば鳥)を通しその奥へと溶け込んでいった時に、魂に共鳴するイメージを感受して生まれる神秘的な陶酔や歓喜を経験しようとしたであろう。そのような頭脳の中での作業が、人は自然の一部であると感じる第一歩になるのではないか。その活動を表現すると詩や文学になり、音楽になり、絵画になる筈で、もちろん芸術は幅広いものだから他の違った経験からも生み出されるが、見えないものに対する感応は芸術がもたらす至福で、恐ろしい死の謎を解きほぐさんとする何かを併せ持っているように思う。ロマン派というくくりで捉えなくても、多かれ少なかれ絵や詩が持っている重要な一面であろう。
 イギリスの水彩画
 歴史的に見ても島国で辺境の地であった故か、ヘレニズム・ヘブライズムとは異色のケルト文化の伝統も受け継がれたせいか、イギリスには文学だけでなく美術においても他のヨーロッパ諸国とは少し違う独特の側面が見受けられる。水彩画は油絵よりも古い時代(エジプト時代か)からあったが、15世紀の油彩の登場であっけなく傍らに置かれる状況に甘んじた。そんなヨーロッパの中で、唯一、水彩画が発展して全盛を極めその地位を正当にしたのは、自然や風景に目を向けることを忘れなかったイギリスだった。 ターナー(Joseph Mallord William Turner 1775-1851)はそれを代表しているひとりである。彼が油彩画においても自然と風景に多く題材を求めていることは特異でイギリス的であるが、実はターナーは水彩画の名手でもあるのだ。彼は水彩画をより多く描いており、自然や風景と水彩画は切っても切れないものであることを示唆している。例えば、どこでも共にあり私達を慰めてくれる空や雲、なんでもないそのものが画題の立派な主役になることを教えてくれたのはターナーである。我が国でも、かの浅井忠は空と雲の難しい表現に水彩で悠然と取り組んでいる。彼等の空と雲の表現を観ると、刻々と変わる清涼な空気の流れは水彩画でなければできないのではないか、自然の瑞々しい瞬間は重々しい油彩では表現しにくいかも、と感じざるを得ない。
 忘れがちだが、自然志向のイギリス絵画が後のフランス印象派に大きな影響を与えた点にも注目しなければならない。モネ(Claude Monet 1840-1926)は1871年シスレー(Alfred Sisley 1839-1899)と共にロンドンに渡り、水彩画を含めたイギリス絵画、特にターナーにショッキングな感銘を受けたと言われる。自然を見つめ直して自分達が今やろうとしていることを20年以上も前にイギリスで既にやっているではないか、という驚きだったのである。大陸と離れた島でイギリス画家達は独特の文化で以て自然をこよなく写し、その素晴らしい芸術性を見出したのが印象派の画家達なら、一世を風靡したフランス近代絵画の先魁はイギリスにすでにあったと言える。
 京都大原に見る水彩画の世界
 イギリスと言えば、その華麗な歴史と共に、バラ作りに代表されるガーデニングと、コッツウオルズなどの緑豊かな自然の光景を描いてしまうが、同じく島国で歴史が深く風土に似たところがあるからか、強い共感を持つのは私だけではないだろう。彼等が自然や風景に目を向け、そのさりげなくて奥深い美しさに打たれるのも、自然を友とし花鳥風月を愛してきた私達には何故か分かりやすい。但しここで言う自然は西洋的な考えに基づくもの(人間が為すことと対極にある自然)を意味し、日本人が大昔から捉えて来きた天地、万物、森羅万象、造化の意味するもの(人間を含めた太陽のもとの全てを指す自然)ではなく、どちらかといえば「山水」や「花鳥風月」に近いかもしれない。
 我が家は皆、広がった空と山と緑が好きである。京都市内と言えど開発の進む南部に比べて北部は青々とした山が延々と連なっており、ちょっと足を延ばせばすぐに新鮮な空気を味わえる。昔からの鯖街道を辿り八瀬・大原を抜ければ琵琶湖へも日本海へもすぐで、道筋には自然が溢れており、京都は都市であるが古都であり大いなる田舎をも併せ持っている。
 つきたての餅を欲しくなったら大原へ行くことにしている。母が運動会に作ってくれたような巻き寿司やおいなりさん(いなり寿司)もある。大原の人達は大原女だけではない、昔から市中の祭りにはそんな餅や寿司を売りに来てくれるのだ。家族に料理を作るのが日常の主婦でも、ときには子供に還って母に作ってもらいたい、そのような気分にさせてくれることが好きで買い求めるのである。昔ながらの漬け物も地鶏も卵も、新鮮な季節の旬の野菜はもちろん、山で採った四季毎の木々の枝や庭の花々を生花用にと、まるでそこに生活させて貰っているように、あるがままを手に入れることができて嬉しい。
 大原はイギリス人でハーブ研究家のベニシアさんが住んでいることでも有名になった。英会話を教え料理店も経営され、近くの園芸店ではベニシアさんを見かけたりする。私は、その料理店にいつでも小さくさりげなく、でも新鮮で珍しい、花屋さんにはない庭の花が楚々と生けられていることで彼女の存在を知った。「『門から何十メートルもあるような貴族のお屋敷に生まれながら、何で日本のこんな田舎に来たん?』と聞いても笑うてはる」と大原の仲良しのおばさんが語ってくれた不思議である。彼女の暮らし方は、まこと自然と風景と風土を殊の外大切にする、イギリス的で水彩画的で、そして日本的であると言えよう。草花を育てハーブに囲まれ手間を惜しまない手作りの生活、そして何よりも彼女の大原の四季を愛するエッセイ(日記)はイギリスロマン派詩のようであり、彼女の暮らし方が描く世界はまるで水彩画である。
 大原特産の鮮やかな紫蘇ジュースとつきたて餅を頂いたら、何気ないあぜ道を散歩するのが好きである。市中とは全く違う匂いがして風がやさしい。見渡せばコンクリートはなく蒼い山と青い空があるだけ。野に働いている人はやさしく語り、忘れかけた昔からの智恵を授けてくれる。そして私は水彩画を思い浮かべるのだ・・・
 水彩画の導入
 日本では幕末から明治初期頃に西洋画の導入があり、ほぼ同じ時期に入って来た水彩画の素晴らしさを早速受容した。どこかイギリスと似たところがある我が国にして「なるほど」と思える。その頃来日したイギリス人にジャーナリストで画家のワーグマン(Charles Wirgman 1832-1891)がいる。当時報道写真に代わるものとして描かれ送られた中に水彩画があり、逆に言えば水彩画の描けないイギリス人は報道人の役目を果たせなかった訳で、実際には彼の描く絵が少なからず日本人画家に影響を与えた。その後もイギリスの水彩画家達が来日して展示や講演を行っている。アルフレッド・イースト(Alfred East 1849-1913)もそのひとりである。自然と風景と強く結びついたイギリス水彩画だが、異国の日本で写したのはやはり同じ目線であった。日本の自然や風景や風土を新しい自然観を以て水彩で描くことが、日本の画家達を大層刺激した。
 一方で、浅井忠はイタリア人のフォンタネージ(Antonio Fontanesi 1818-1882)に学んだ。浅井は後にフランスへ留学し、明治期水彩の白眉とも言える作品を描いた重鎮である。帰国後京都へ招かれ、油彩や工芸と共に水彩画をも丹念に指南し優秀な後進を何人も育てた。ところでフォンタネージはイタリア人といえども非常にイギリス的であった。ターナーやコンスタブル(John Constable 1776-1837)等イギリス風景画の影響を受けたバルビゾン派に傾倒し、また渡英もしておりその水彩画を高く評価していたのだろう、浅井忠はじめその弟子達は水彩画を熱心に研鑽しており、そんなところにもイギリスの影響が大きく感じられる。 ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900 イギリス人)はいち早くターナーを見出した批評家であり、その著書「近代画家論『Modern Painters』」が明治期の日本人が熟読した最たる西洋美術書であることを鑑みると、後に世界中で、また日本でもフランス近代絵画一辺倒に陥った錯誤に比し、明治期は西洋画導入の初期であったと言え、まだ穏当な判断をしていたと言えるだろう。
 素材として断然強い絵具で描かれた油彩画と比較される運命にある水彩画は、その後日本でも油彩画との関連で議論を呼び、初歩的だとか、二次的あるいは一過程に過ぎないというような扱いを受けた。しかし優れた水彩画家達の功績がありそれなりの発展を遂げ、もともと水墨・淡彩・日本画という水で溶く画材が受け継がれて来た土壌ならば当然の帰結であって、本当はもっと注目されねばならない。
 「しろばんば」と俳句と水彩画
 井上靖(1907-1991)の「しろばんば」は彼自身が代表作であると言う名作である。私はこれほど日本的で美しいものはない感動を覚え、今でも共感を分かち合える幸せを忘れることがない。淡々とした文章のきれいな流れの中に、日本にしかないもの、一朝一夕では決して築けない日本古来の大切なものがそこはかとなく感じられるからである。自叙伝でありあらすじがとりわけ面白い訳ではないが、私達日本人の先祖伝来の自然と共にあった暮らしと心情と空気を、なんと誇り高く香しく伝えているのだろう。
 主題は繊細な時期の少年の心理を取りこぼすことなく、また周りの人々のてらいのない人間性を見事に表現していることになるだろう。けれどそれに終わらない何かが、それ以上に美しいのだ。背景や隙間にふんだんに見え隠れする、我が国が永々と大切にしてきた自然と風景と、人がそれに馴染んで築いてきた何にも代え難い風土の愛おしさである。井上はそれを盛り込むことに細心の注意を払っていたと思う。ふとした折々に、ほんの少しだけど見逃すことなく表されるその表情が、少年の繊細な心理と相まって編み込まれていく。読む者の頭の中に鮮やかな風景が描かれていくから不思議である。
 自然に心を寄せるとなると、我が国には俳句がある。俳句は最近海外でも人気が出てきたらしいが、イギリスのロマン派の詩と似ていて違う、自然のうつろいに無尽の関心を寄せる、世界でも稀にみる文学の形態であろう。世界一短い表現なのに、言葉に万感の意味をふくませて背後に大きく広がる世界を描き、導かれたイメージやヴィジョンに感応する共感の歓喜までを内包している。季語が指し示すように、使う言葉は端的で必ず洗練されていなければならない。日本語の言葉の美しさを正しく伝える最たるものだろう。自然事象に対する鋭敏な感覚と観察が前提にあってこそ人の心を打ち、表出したものは短くてもそれに至るまでが遠い。でも短いゆえに的を射た表現はいつまでも心に焼きつくようだ。
 もし、とても日本的な「しろばんば」や日本独自の俳句がもたらす詩的な世界を絵にしようとするならば、きっとあの明治の一時期の素晴らしい水彩画になることだろう。
 今も生きている水彩画
 研ぎ澄まされた水彩画の前に無心で立ってみるがいい、心が吸い寄せられていくだろう。大原のあぜ道で風に抱かれ全身で感じる空気、空と山の端の刻々とうつろう流れに目を奪われる時、瑞々しい潤いと清新な酸素をからだ一杯取り入れてみたくなる。それは水蒸気の成せる業だろうか、水彩画の世界そのものである。目をつむれば「しろばんば」や俳句の美的で温かい世界と重なってくる。ファラオもきっと望んでいたであろう、限られた命が永久の自然の流れに繋がって溶け込んでいける感慨が湧き出てくるだろう。
 ところで大事な問題が見落とされていないだろうか。前述の浅井忠など明治30年代以降の素晴らしい水彩画の一群が当時は光り輝いていたのに、今や時代物のようになってしまって、正当評価がなされていないことである。日本の美術史を素直に辿ってみても、つぶさに再考されなければならないことが必須である。かつて黄金時代を築いたロマンティックな自然描写である水彩画が、触ったら壊れそうな宝物になってしまっている。水彩絵具が油彩ほど耐久性がないことも理由のひとつかもしれない。自然の実に繊細優美な描写にこだわっているのだが、そのこだわりが後の水彩画発展を妨げたという説もあったりして、今では誰もやらない、誰もやれない、幻の詩的表現になってしまったのだ。その技量たるや他の追随を許さぬほど難しいものだからだろうか。自然の奥深い処での芳醇な感応を豊かに伝え、私達の心の琴線を激しく揺さぶる芸術なのに、本当にもったいない。
 永々と受け継がれてきた美しいものを、気がついているならば、いや絶対に気づかなければならないが、今絶やしてはいけないだろう。次世代に正しく受け継いでもらわねばならないからだ。先人がどんな思いで描いたのか、今なお生き生きと息づく水彩画を蘇らせ、限りない光が当てられんことを切望する。
平成21(2009)年 10月      

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