星野画廊で開催した主な展覧会─90_1

滞欧作品―その熱き鼓動・・・・・星野万美子     

はじめに
 今年の京都の桜は近年稀に見る華やかさだった。花時にいつもの菜種梅雨に遭うこともなく好天に恵まれ、また昨夏の暑さが植物をより繁茂させたのだろう、街の隅から隅までを連日にわたり白から濃淡の桃色でみごとに染めあげたのである。国内外の桜好きが、色づいてわかる桜の木の多さに右往左往し、一様に?をさくら色に染めて行き交った。例年なら「染井吉野」から順に咲き送る「枝垂れ」や「八重」、トリを務める遅咲きの八重「桜」までが入り乱れて開花、葉が出始めてもドライフラワーのように花がとどまり、春を惜しむかのように美しさを誇示し続けた。
 桜や紅葉の名所に恵まれた京都は、最近になって街並みも少しずつきれいになり、数々の遺産をもっと見直そうという方向に向いて喜ばしいことだが、遅きに失した感は否めない。いつの間にか、追いかける立場から追いかけられる立場になり、欧米のようにポストモダンの時代に入った日本のこれからを考える時がとっくに来ている。そのポイントに、景観とともに物質的・精神的な文化の両面からの熟慮が重要なのは言うまでもない。
 京都は旧くて新しい街であり続け、伝統と革新を併せ持ちつつ良いものを創成してきた歴史を持つ。それは、江戸末期に外国から「庭園都市」と賞賛された緑なす東京はじめ日本全体に同じように言えることでもある。ところが現在の私たちは、連綿と持ち続けてきた、伝統も革新も両方やるのだという気概を忘れかけていないか。IT化の時代の波は情報の氾濫と混乱を招き、それが原因で私たちの思考力や気概が削がれているとすれば問題だ。体内の血の流れるスピードは変わるものではなく、人は人なりに感じ、考える本性を取り戻すべきだろう。
 世界を感じ日本を考えて近代化に奔走した明治以降、美術界における最大の特徴は西洋画の本格的な導入であり、当時の多くの画家たちを何よりも強く突き動かしたのは渡欧することであった。交通や情報の手段が格段に発達し世界が間近に意識される今と比べようのない、外国が未知に包まれた時代である。経済的あるいは物理的苦難を押してでもなぜ行かなければならなかったのか、何を見て何を持ち帰ったか。西欧絵画の様式と表現の習得はもちろん、思想や文化、美意識を直接眼と肌で感じなければならなかったはずだ。心の眼で観察し常に高みを見つめていた画家は、近代化という時代の急流を全身に受け未知の扉を開いて得たものを、言葉ではなくひたすら絵筆で作品にぶち込めている。まさに新しい絵画が熱き鼓動を始めたのであった。凄まじい気概が強い力になって溢れ、それまでの日本美術にはなかった独自の世界を構築した。何百年やってきた西洋人による西洋画ではない、日本の伝統の上に、日本の心と感覚で、西洋の思想・技法という革新の炎を灯して創成された佳品が数々生まれたのである。

日本に溶け込んだ外国人観光客
 2003年に日本政府が観光立国の実現を宣言し、ビジット・ジャパン・キャンペーンを開始したこともあって、2012年には830万人を超える外国人が日本を訪れるようになった。大阪万博開催の1970年に初めて100万人を超えたことから思えば進歩したものだが、観光立国としてはまだまだで、1位のフランス8300万人の10分の1、お隣の韓国1100万人よりも少なく、国別では33位という体たらくである(尚、2013年に1000万人を超えたニュースにより今年は30位以内に入るだろうとの予測がある)。
 私の居所では歩けば外国人に会い、バスに乗れば外国人が半分以上という風で、いくら観光シーズンでもこんなことのなかった過去を思えば様変わりに思えるのだが、激変したのはアジア人が増えたことである。2012年の統計によれば、日本への外国人旅行者のうち韓国、台湾、中国がトップ3カ国を占め米国は4位という実情に加え、香港、タイ、マレーシア、インドネシア、インド、ベトナムなどからも増えているからである。アジアからだけでなく広範囲の世界各国からの旅行者が格段に増え、またゴールデンルートだけでなく地方都市を訪問する人が増えたことも加えねばならない。
 何よりも隔世の感がするのは、彼らの旅行方法と手段である。私が観光通訳(通訳ガイド)していた頃の外国人観光客と言えば、言葉の問題だけではなく持っている情報が非常に少なく、持っていたとしても『Japan』に代表される書物から得たようなアウトラインでしかなかったから、何かのかたちで現地ガイドを必要とした。グループか個人でガイドを付けるか、ガイド付きのパッケージツアーを買うかの方法がほとんどだった。今は簡単な地図とスマートフォンでのバス乗り、貸し自転車や着物姿での京都めぐりと、まるで日本人と同じような軽い気持ちで軽い足取りで街中のいたるところを闊歩し、すっかり日本に溶け込んでいる風だ。彼らにとって日本がごく身近になったということだろう。
 時折いろいろな国の人たちの相談相手をしながら感じるのは、世界が身近になったとは言え、未だに大きい国柄の違いである。例えば、日本人との会話を楽しむ欧米人と、どんなに困っていてもアイコンタクトが少ないアジア人とでは接し方も変えなければならない。友達になれるかどうかは個人差で、どこの人でも同じである。現実生活に直結したことに深い関心を抱く近隣国の人々や、非日常を楽しみ、文化財や伝統を素直に賞賛する欧米人が多いが、日本人がどのように考えどのようにやっているかの目線で結構きわどい質問が多くなったのは、日本人への親近感の表れだろう。外国旅行している日本人は現地の人々にどのように映っているのだろうか。

桜にみる自然と人知の競い合い
 桜見物に熱心なのがアジア系の観光客で、隠れた名所にも足を運ぶ様は日本人並み、その真剣なまなざしは、品種改良によって著しく変容した桜の華麗さと植栽のされ方を特に愛でているように見えた。開花の先陣は、通称「出町柳のおかめ桜」と親しまれる長徳寺門前のイギリス生まれの早咲きの桜が務めることが多いが、そこでも近隣国の観光客が熱心に写真を撮っていた。この桜は、著名な桜収集家で育種家でもある英国人イングラムが「寒緋桜」と「豆桜」とを交配させて作出(1947年)したもので、濃いピンクの一重の花が下を向いてびっしりと咲く姿は、遠目からは桜とは思えない西洋的なあでやかさだが、近くで仰ぎ見るとおひな様のように整って優雅な美しさである。菊とともに日本の国花である桜が英国人の革新的な努力で品種改良され、京都の春の訪れを告げているとは感慨深いものがある。ちなみに千本釈迦堂(大報恩寺)の通称「桜」は全く別のもので、千本釈迦堂を建てた棟梁の献身的な妻「おかめさん」になぞらえてつけられたものである。この枝垂れ桜もみごとな花すだれを楽しませてくれた。
 仁和寺の「桜」は、通常四月下旬頃に咲くため桜の観納めに行くことが多いが、今年は早く咲いた。桜の下での宴会が止められて良好に育っているようで、数年ぶりに観た樹齢360年以上と言われる豪華絢爛な姿に圧倒された。「御室桜」とは総称で、その中の「御室有明」という御室の地特有の八重の桜がよく知られ代弁しているものなのだ。土壌が粘土質のためか深く根を張れず、樹高が2〜3m以上の大きさになると枯れてゆく性質があるため、根元から伸びる若芽「ひこばえ」を育て、常に世代交代させている。バラのシュートを育成することや、今流行の「株立ち」の手法と考え方が似ている。桜はじめ一般の庭園樹の育て方においては、幹を太く丈夫に育てて美しい樹形を作り上げていき、「ひこばえ」は切り捨てられることが多いと聞く。伝統手法が重んじられただろう桜の剪定に、特殊な土壌に合わせてとは言え、こんな逆の発想をしていたとは驚いた。
 新しいものを求める日本人の進取の気性は、猿のものまねにたとえて批判された時代があった。ところが、常に発想を転換し努力を惜しまず、伝統をより豊かなものに発展させてきた私たちの文化は、今では世界中から理解され愛されるようになったのである。近年、多種多様の園芸品種が産出されてガーデニングブームを巻き起こし、特にイングリッシュガーデンは一世を風靡した。日本は園芸王国で、庭作りには長い歴史があり内容も深く世界に冠たるものだが、「何をいまさらガーデニングか」などと疑問を持たず、両方の良いところを楽しむのが私たちの方法なのである。「御室桜」の技法は、発想の転換を示す良い例である。植物の品種改良で自然界にはない園芸品種が作出されてきた経緯は、科学的に順序だてて考えればあり得ることだろう。しかし自然にある木の育て方において、剪定を繰り返しながら大きさも鑑みて樹木の整った美しさを追求する日本の伝統方法は、盆栽にも集約されているように独自の文化と言えるものだ。本来なら一本仕立てにする桜の「ひこばえ」を生かし、花を根元から咲かせるという考え方は非常に柔軟だ。伝統と思っている固定観念は私たち受け取る側で勝手に築いたようなもので、当人たちは先人の教えを受け継ぎつつ常に自由闊達な思考で発想の転換をしてより良いものを目指していたのだ。
 ところが、不幸な土壌にかくも豪華な花を咲かせた「御室有明」が、豪華さは負けず劣らずだが長い月日にわたり更新を繰り返したからか、八重のはずが最近一重の桜に先祖返りしている木が多いそうで、その対抗策として2年前には八重を元に培養したクローン苗を定植したらしい。桜は本来一重で、品種改良により八重が生まれた経緯を考えれば、他の植物同様ありうることと納得できるが、何だか自然と人知の競い合いを見ているようだ。
芸術家たちの交流
  明治以降の近代化政策は何よりも産業を中心としたものであったが、遅れをとっていた日本が産業革命後の西欧諸国に学ぶべきものはあまりにも多方面にわたっていた。明治4 年から6年に岩倉使節団がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど欧米を歴訪したことに始まり、その後も各方面の日本人が大義名分を抱えて各国に留学している。日本の近代化政策がアジア諸国の中で一番乗りであったことが後々の差となって現れるのだが、当時の人にとっては並大抵の気概ではなし得ない、国民が一丸となってなさねばならぬ大事業だった。
 新進の学者・文学者や画家も奮い立った。猶予を許さぬ状況で、多少の焦燥感を抱え、進取の気性を押し出しながら憧れの欧州へと旅立ったのである。当時のヨーロッパも世紀転換期とそれ以降の激動の渦の中にあり、美術界はリアリズムから反リアリズムへの変革期に当たり、画風や様式が激しくうねった時期でもあった。優秀で多感な彼らが、真摯に学び大いなる刺激を受けて持ち帰ったものはそれぞれ違っていた。一方で、渡欧を通じての画家同士あるいは学者・文学者たちとの交流は非常に盛んで、縦にも横にも親密な繋がりを持っているのはこの時代の特徴であろう。彼らが渡欧を通じて助け合い尊重し合ったことが、新しい風を感じて波打ちだした芸術の鼓動をより熱くし、近代化に揺れる文学界や美術界に旋風を巻き起こしたのである。
 正岡子規が活動の舞台にしていた文芸誌『ホトトギス』には、浅井忠の「巴里消息」や、浅井と和田英作が記した滞在記「愚劣日記」が紹介された。浅井が渡仏した同じ年に渡英した夏目金之助(漱石)が、同級の正岡子規(と高浜虚子)に送ったロンドンからの手紙も同誌に掲載された。漱石はロンドン留学時代にパリの浅井忠を訪ねたが留守だったとか、今度は浅井がロンドンの漱石を訪ね数日間下宿に滞在したようで、画家と11歳年下の文学者は何を語り合ったのだろうか。ラファエル前派やアールヌーヴォーなどに代表される世紀末芸術の影響を受けた夏目漱石が、そのひとつの特徴である女性の官能美をほのかに作品に反映させているのは、いかにも内面をえぐる文学者らしく、油彩画・水彩画研鑽の他にアールヌーヴォーの曲線の美しさに惹かれ、ウィリアム・モリスに端を発する応用美術へと関心を高めたのは、いかにも豪放磊落で高みを見続けた画家の浅井忠らしい。また漱石が自分の作品に黒田清輝や浅井忠をモデルとして登場させ、一方で遠慮なく辛口の美術批評をしているのは、互いの思考を尊重しながらかなり厳しく親しく、上昇志向の上質な交流をしていたためと思われる。この時代の芸術家たちは、密な関係を続け、切磋琢磨し合い、互いの芸術性を高め、それが芸術の向上に繋がったと言えるだろう。芸術家同士が群れをなすのはヨーロッパでも同じだったようで、そういう時代だったのかもしれない。有能な彼らのリーダーシップによって、西欧の渦巻く多彩な風潮がほんの短い期間に一気に持ち込まれたことは、多少の行き違いを生じたりもしたが、最近の詳しい研究では彼らが成した渡欧の意義の大きさが再認識されている。

発想の転換―画家の求めたもの
 明治初期にはイギリスやイタリア、ドイツに赴いた画家もいたが、その後フランスで学んだ画家が断然多いのがひとつの特徴と言える。そして、情報や交通手段が得にくい渡欧初期の頃の状況では訪問先が限られてくる場合が多く、パリ以外では、パリから比較的行き易く日本人画家たちの感性に適合したと思われる、例えばグレー(パリからセーヌ川の上流南東70km、フォンテンブローの森の東南端でロワン川との合流地点)とヴェトイユ(パリからセーヌ川の下流50km西)などが日本人画家たちにゆかりの深い場所として知られ、多くの名作がこのあたりからも生まれている。
 日本人留学生に人気があったグレーは19世紀後半から各国の芸術家が集まった芸術家村で、黒田清輝は1890年(明治23年、黒田24歳)から2年6カ月、その10年後(浅井44歳)に浅井忠が6カ月滞在した。そこで黒田は〈読書〉(東京藝術大学大学美術館蔵)、〈婦人図(厨房)〉(東京国立博物館蔵)など、浅井は〈グレーの柳〉(京都市美術館蔵)や〈グレーの洗濯場〉(ブリヂストン美術館蔵)などの油彩画、〈グレーの橋〉(ブリヂストン美術館蔵)、<グレーの牧牛>(東京国立博物館蔵)、〈グレー洗濯場〉(東京国立博物館蔵)などの水彩画の名作を遺している。グレーに滞在した時期は10年黒田が先、滞在時の年齢では20歳浅井が上という違いはあるが、同じようなものを見聞した黒田と浅井の得たものが違い、帰国後の評価を分けた時期があった。しかし、ふたりとも他の画家たちと同じく「派」の区別などせずに交流し、自分たちが純粋に良いと思うものを素直に追求し、そのことが日本の近代絵画にとってはそれぞれにすばらしいものを持ち帰る結果に繋がった。
 古代ローマ詩はじめロマン主義叙情詩やフランス田園詩に親しみ、フランス外光派カミーユ・コローのような19世紀の風景画家の生活を好み、ラファエル・コランの弟子になった黒田は、特に光と影について研究し、後年「」に対する「」と呼ばれる外光描写の人物画を以て帰国後圧倒的な支持を集めた。一方「脂派」と呼ばれる浅井は、留学前にフォンタネージの本格的な西洋美術教育で受け継いでいたモチーフと表現法を、フランスで外光派や印象派の作品を直接見てより深く研鑽し、すばらしい独自の油彩画・水彩画でグレーの風景を描いた。またパリにあっては工芸や応用美術にも興味を示し、後にアールヌーヴォーの曲線に注目した新しい日本風のデザインに挑み、美術を各分野に分けたりせず総合的な何かを生み出したいと願った多才な画家だった。日本における洋画定着が国力増強に繋がるものと考えて行動した浅井の正統性と斬新性には当時あまり理解が進まなかったようだが、最近になって一躍注目されるに至り、水彩画などは世界的レベルで評価が高い。グレーは続く世代の憧れの地となり、渡欧した名だたる学者や画家たちが訪れ、さまざまに交流したようだ。
 ヴェトイユはパリ近郊の素朴な風情を残す小さな村で、モネがジヴェルニーに移る前に3年間暮らして静かな自然風景を描き、後の睡蓮の連作へと連なる作風へと転換した場所として知られる。1910年代から20年代にかけて、金山平三や正宗得三郎、日本画家の土田麦僊などをはじめ多くの日本人画家が訪れ、コロニーのようになった。モネのヴェトイユ時代の作品が早くから画集などで紹介された影響ではないかとも言われているが、モネをあまり気にかけなかった森田恒友のように写生旅行地として選んでいる場合もある。土田麦僊を訪ねた浅井忠の内弟子田中善之助は「このヴェトイユはカーニュよりもいい」(妻への手紙)と感心し、個性的な風景画をたくさん描いている。

 洋画のモチーフや手法だけではなく画家たちが持ち帰ったものは多彩で、それまでの日本になかった感覚、考え方や見つめる方向などに新鮮な風を吹き込んだ。例えば、日本の美術には表現されにくかった目に見えない光や影、あるいは空気や水蒸気をいかに絵画で表現するかは、特に彼らに共通する関心事で、それぞれに苦戦し、挫折し、体得した意義は大きかった。光の色、光を受けて放つ色彩、影の中の光や、地から空へ抜けゆく水蒸気、乾いたり湿ったりしている空気、雲や風等々を加えた、生きて鼓動するような絵画の表現は新しい試みであり、当時渡欧した日本画家たちも同じ問題に取り組み、日本画で挑んだのである。画家の創造の世界を広げ後輩にも大きく道を開いたのは、渡欧画家たちの目から鱗が落ちた発想の転換があってこそ成し得たのだろう。「御室桜」に見られる発想の転換は自然とともに暮らしてきた知恵と経験から生まれたかもしれないが、渡欧画家たちにとっての転換は、パリやグレー、ヴェトイユなどで違う空気を吸い、知らなかった歴史に学び、全く異なった自然と人間の世界に触れることで達成できたのである。
  最近ジャポニスムの研究が進み、日本人が西欧諸国から学び取った歴史の反対側から、日本人と文化が彼らに与えた影響が注目され、明らかになってきている。よく知られる浮世絵ばかりではなく、日本の染めの型紙(伊勢型紙など)がデザイン界に与えた刺激などである。
 私が驚くのは、渡仏した日本人画家たちが西洋絵画を実見し師を選ぶにあたって示した見識が、19世紀以降のヨーロッパの芸術状況に対する今までの見方を変えるだろうというフランス側から見た検証である。日本人は凝り固まらずに、つまり当時フランスにあった潮流や固定観念に囚われず、各派の良いところを理解し取り入れた。外からの眼で見た芸術に対する純粋な判断が、当時のカチンカチンになっていた観念を見直すきっかけになった、ということらしい。
 例えば、日本人画家が師と仰ぎ、また心の師としたラファエル・コランは、当時のリアリズムと自然主義から理想主義、外光主義までも総合して取り入れ、確たる威厳と柔軟で優美な感受性とを併せ持っていた。芸術をタイプに分け排他的なものの見方が強かった時代には理解されにくかったコランだが、最近注目されているというのだ。日本人画家の眼を通じて発想の転換をしたということだろう。これはほんの一部の動きであるかもしれないが、当時の流行を追わずコランを選んだ日本人画家の感性と眼、その日本人画家たちの眼を尊重しコランを今顧みようとする眼、その両方に人間らしい柔軟さと優しさを感じざるを得ない。人としての優しい眼が、固定観念に縛られず、芸術を通して地球上どこでも時代を超えて私たちを生かす力になっていると感動させられる。
取り戻したい日本の精神性
 日本の里山は今や世界の人に知られ、その文化的価値に耳目が集まっている。先人が築いてきた生活の知恵が、過去のものではなく未来への鍵として注目されているのだ。里山には人間性を見失わないための、本来の人間に戻るための重要な要素が詰まっているからだ。しかし、もう都市部には遺っていないとまで悪口を叩かれる日本の旧い良さ、外国人から見直される、受け継がれてきた知恵と文化が本当に地方にしか遺っていない、さらにそこにさえ見つけられ難いとすれば問題である。同じく長い歴史を持つヨーロッパで、歴史都市も田舎もそれぞれに旧いものを景観とともに大切に護り観光資源にしていることを思えば、私たちはもっとがんばらねばならない。神社仏閣や庭園、文化財はもちろん、今注目されている和食文化や習慣、生活様式に至るまでを、もっと知りたい、見たいと世界から求められて(追いかけられて)いるのが実情である。「もったいない」や「おもてなし」の心などが注目を浴びているのだ。文化遺産とは「もの」だけを指すのではなく、二千年の歴史の中で培われてきた私たちの在り方そのものや、それを支えている精神性が尊重されていることを自覚する必要がある。それはまた日本のビッグチャンスでもあるのだ。 
 それなのに、日本の精神性が失われつつないだろうか。核家族化は日本の習慣さえ教わっていない若者を増やした。先世代から知恵を貰わず互助の力も欠落した中で、孤独感に襲われながら子育てに奮闘するお母さんは、優秀なのにどこかで人の優しさに飢えている。人に関わってはいけないのか、と首を傾げたくなるプライバシー保護の横行は、街中から親切でおせっかいな年寄りを減少させてしまった。これでいいのだろうか。
 文明(技術・機械の発達や社会制度の整備による経済的・物質的文化)による恩恵は、実生活に直結しているため認識されやすいが、より深いところで人間性を支える文化(宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化)から受ける恩恵は、直接的でないゆえ忘れられやすい。持てる文化に甘んじて、それを正しく護ることも新しい文化の形成にも配慮せず、目の前の経済と社会整備だけに躍起し、いつでも行き詰まっている状態に陥りやすい。文化は形として持っているだけでは持ち腐れになる。その精神性を護り伝えていくことも大事なのだ。個人の権利を守ることと同時に高尚な人間性を育てることの大切さ、知育体育だけではない徳育の重要性は、今見直さねば手遅れになる。欧米人からよくある素直な「我々はキリスト教にあって神のもとという共通理念で以て律していこうとするが、日本人はどんな共通理念で動くのか?」という質問に、はたしてどれだけの日本人が胸を張って答えられるものを持っているだろうか。
 私たちは、昔から旧いものを護りつつ異文化をも取り入れ、常に発想の転換をして新しい独自のものを創成してきた。その貪欲なまでの気概と柔軟性と独創性が今日の良い結果を産んでいるとすれば、それが長い歴史を通じて先祖から譲り受けた尊いひとつの精神性であり、今後の教訓でもあろう。ポストモダンに入った日本の成熟度が試されている。人間への優しさが国や時の垣根を越えて伝わることが分かった。画家たちが日本の心で外国世界に飛び出し、大きな発想の転換をして未来への礎を築いた精神性を見習い、今度は私たちが新旧両方をやるのだという強い気概を持って文化を刷新し続け、世界に向かって発信していきたいものだ。滞欧作品は、主亡き今も熱い鼓動を続け語りかけている。
平成26年(2014)初夏

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