星野画廊で開催した主な展覧会─91_1

久保田米僊-明治丹青界の覇才・・・・・星野万美子     

はじめに
 ICT(IT)の発達により世界中でグローバル化が進んだのは近々のことであるが、世界の産業構造までもが猛スピードで激変し、日本の今までの立場を大きく変えつつある。同じアジアの中国、インド、韓国、マレーシアなどの発展に、対岸の火事などと傍観していられない状況に追い込まれた。日本は鎖国へ逆戻りせんばかりに、リバース(逆)・グローバリゼイションを選択しているという意見はともかく、対策が後手に回っているところはあるだろう。夢が小さく国内指向の若者が増えているともいう。私たちが今必要なのは、「経済大国」の甘い夢は捨て、頭を低くして学び直し考え直す姿勢であろう。その重要なポイントに、自分たちの歩んで来た道つまり歴史を振り返ることがあるのではないだろうか。
 アジアに押し寄せる欧米列強の圧力下、日本はいち早く近代化の幕開けを成功させたが、その明治という時代がここに来て脚光を浴びてきている。明治時代の傑出した人物、外国人によるとstrong menの話が、特に日本事情に詳しい彼らから度々持ち上がる。外国人をしてstrong menと言わしめる人物(このstrongは精神として筋が通っており尊敬できて強い、という意味合いで、亭国主義的なものを指してはいない)が明治時代には多数存在し、そのリーダーシップが近代化を加速したというのである。リーダーたちを育んだ土壌となる、侘び寂びだけではない、礼儀、敬愛、和の精神などを含めた日本の豊かな文化と併せて評価されているのだ。ところが、世界的規模で難解な時代に直面している今、何を焦ってか、そのような持ち前の精神文化を私たち自身が置き去りにしようとしている。明治の日本がなぜ成功したか、何を積み残したかに目を向けなければならない時が来ている。
 明治中期に活躍した久保田米僊は、天資に恵まれすばらしい作品を描いた日本画家であるが、その天分は他分野でも発揮され、典型的な明治のリーダー的存在だったと思われる。古来培って来た文化を大切にし、早々と外国に接した経験から世界の中の日本人のあり方を深慮し、自身の生き方や作画姿勢を通じて何かを教えようとしている。日本の矜持の持ち方を説き、観察は鋭く考え方は常に冷静で進歩的であった。米僊を知ることは明治を知ることになる。
 ところが、米僊研究は遅れており、特に彼の本領である画業についての研究があまり進んでいないのは誠に残念だ。作品も多数埋もれたままのようである。米僊については、著書『女学全書 画法大意』(1892 明治25)など、また『米僊画談』(1902 明治35)およびその付録「米僊自伝」をはじめ著書・執筆物は多数あり、また息子・久保田米斎による「父久保田米僊の生涯」という記録などが遺っているのは幸いである。久保田米僊は昨今の私たちが忘れかけている日本と日本人を彷彿と蘇らせてくれる貴重な画家である。そして何よりも絵が巧い。博識で慧眼の士、旧きに精通し新しきに挑戦した米僊の生き方とその力強い画業を掘り起こし、私たちの進むべき道へのヒントを見出してみたい。
日本の美しい姿かたち
 この夏、野生のキジに偶然にも二度出会えた。琵琶湖畔の清らかさに心奪われ車を止めると、雄のキジが艶やかな姿でこちらに目をやりながら悠々と横切り、また一度は、緑深い大原の道路脇でぷっくりと愛らしい雌のキジに巡り会ったのだ。自然からの大きなプレゼントに心は弾んだ。私にとってキジは昔から謎めいた鳥である。親戚の子たちと戯れたお化けごっこでは、キジの剥製が置いてある部屋が不気味で怖かった。でもそれ以上に、このような大きくて美しい鳥が野山を駈けているのかと子供ながらに感心した鮮烈な記憶がある。当時でさえ見かけることは叶わなかったのだ。穏やかな色彩でまとまっている日本の自然の中で、アースカラーではなくかくも華やかな衣装で、カワセミのように体が小さく水辺の木々に隠れやすいこともなく、大きな図体で広い野原を駈けて生きてきたこと、またそれを許容してきた日本の優しい自然と人の暮らしに深い感動を覚える。
 キジは樹上で眠るが地上を走り歩くのが得意で、植物の種子や芽、クモや昆虫を捕って食べ、その足は裏にある特殊な感覚機能で地震の初期微動を知覚できると言われている。米を届けてもらっている大潟村(秋田県)からの便りに、夏にはキジの親子が畦道を歩き、車に出会うと四方八方に逃げ廻る、とあった。「キジの草隠れ」とか「キジも鳴かずば撃たれまい」などの諺にあるように、どこか鈍臭くて不用心だからか、野生動物や猛禽などに襲われ、また必要な環境が失われつつあって激減している。今も昔と変わらず狩猟対象になっており、そのせいかどうか毎年放鳥されるが、野生動物に大半はやられてしまうそうだ。古事記や万葉集にも登場し、一万円札(D号券)に描かれ、国鳥(1947年に日本鳥学会が選定)で日本人には馴染みあるはずの鳥なのに、何だか考えさせられるものがある。
 久保田米僊〈雉子之図〉(1886 明治19 図版#28)には、米遷が得意とする奔馬ならぬ確かな奔筆で、今にも動き出しそうなキジの雄の気迫が見事に表現されている。キジが松の樹上で眠るのは最近の報告でも目撃されており、眠りから覚めて松の木を降りようとするキジの瞬時の緊張感を実に鋭く観察している。またキジのどこかとぼけた愛嬌のある風体を的確にとらえており、漂う朝の清新な空気とともに、決しておめでたい図柄に終わらない、芸術的で高尚な世界を映し出している。
 米僊は、この絵に日本古来のキジへの賛辞と優しさを込め、日本人の美意識、自然との共生や豊かな精神的土壌を想起させる日本の美しい姿かたちを、最も大事にしていた「心」で表現しているのだ。先祖の英知が築きあげ、キジが群れ遊ぶ豊饒な土地にのうのうと生き延びてきた私たちは、そんな国土とそこに育まれた豊かな精神的土壌を、懐かしくて温かいふるさとを、未来の人たちに受け継いで送り届けることができるだろうか。

何足もの草鞋を履いた米僊
 久保田米僊は、生涯を通じて、一言で語り尽くせない多芸多才を発揮した人である。幼少時から飛び抜けた画才に恵まれ、後年自ら身につけた博識を併せ持って絵の道を多方面に多角的に追求した画家であったが、それで終わることに飽き足りない性分だったのか、そうせざるを得なかったのか、他分野にも自ら係わっていくのである。明治と改元される16年前(1852 嘉永5)に京都で生まれ、大正に変わる9年前(1903 明治36 52歳)に東京で亡くなった。
 京都の料理屋「山城屋」の一人っ子で跡継をせねばならない立場だったが、生来絵が好きで、寺子屋へ行っても手習いはせず、絵ばかり描いていた。矢立(携帯用の硯箱)を腰にさして方々の家の白壁に絵を描いて、しかも勤王の志士の晒し首の絵を描いて廻ったという具合で、親を相当困らせたようだ。趣味人でもあり、息子の趣向をある程度理解してくれた父の怒りにとうとう触れ、家を飛び出して絵への道を突き進む。以来放浪好きは止まず、厳格な気性で堅実路線を歩んだ終生の友・幸野楳嶺(1844-1895)と好対照だったらしい。
 米僊は聞きしに勝るやんちゃだったが、16歳で鈴木百年(1825-1891)に入門し、その頃から漢学・漢詩や歴史、有職故実等も真剣に学び、南画や洋画まで手掛けるなど、高邁な精神を常に持ち合わせて勉学に励み、その努力が彼の才能に輪を掛けた。都々逸や狂句を詠み、風刺漫画や外国旅行スケッチを描き、日本画家としては最初と思われる従軍画家の活動をこなし、美術評論・画論を滔々と述べて著述活動に勤しんだ。美術界事業の発起にも奔走して京都画壇の近代化に貢献したことは忘れてはならない。演劇にも熱心で日本のものに限らずシェイクスピア劇などの時代考証や歌舞伎座で扮装考証に携わり、また新聞界に身を置きジャーナリズムを率いるなど多方面で東奔西走し、明治時代を文化の面からエネルギッシュにリードした。
 彼の足跡を辿れば、西洋の長所を取り入れながらも、その時代にすでに忘れ去られようとしていた、日本の美しい姿かたちを護り伝えたいという、強い意気込みが其処彼処に感じられる。小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn 1850-1904)が、同じような頃に、近代化に伴って失われていく日本の美しい面影を激しく追い求めたのと同様である。まさに明治の人であった。
画家で風刺漫画家
 米僊は、数々の博覧会等で受賞を重ね天覧揮毫を成し、明治美術界のその時代を代表する第一線の画家のひとりである。作品が散らばり発掘が遅れまとめて観る機会はまだないが、その実力は作品を観れば分かる。東本願寺には六基の巨大な大衝立があるが、その中でも目立って迫力のある作品として輝いているのが、阿弥陀堂後堂にある久保田米僊の<波涛大鷹図>(1896 明治29頃・参考図版 #11、対であるもう一基は<波涛千鳥図>)である。怒濤が耳元で唸り、大鷹が観る者の目を射し、生きて動いているような画面に引きずり込まれそうになる。色使いが高尚で、線が殊の外美しい。米僊は海の群青を特注し、水晶を砕いた胡粉を白波に用いる工夫を凝らしているという。桃山時代の金碧画の伝統をしっかり踏まえながら、写実を重んじ、斬新で新しい気風を画面の隅々にまでみなぎらせている。彼の並外れた実力を確実に証明している作品だ。
 「元来日本画は韻致といふ事と手腕の健なる則筆力とを尊び形似を造化の外にもとめ、尚一歩進めて云はば造化の未だなさざるものを作るにあり・・」(『国民新聞』)とは、米僊がフィラデルフィアの画家ヘンライ氏の自宅で述べた日本画論の一部である。同時に揮毫を披露し、日本画の心得である「線」の重要性を説いたという。米僊は「縦横曲線を引く平素の練修」(『米僊画談』)を積み上げる「線」の名手であった。彼の霊力とも言うべき筆が辿る線の美しさと見事さに欧米人は完全に魅了されたようだ。筆と線に魅了されるのは古今東西変わらない。今でも外国人は、日本のカリグラフィーだと言って書や日本画の線に大層興味を示すが、西洋や中東にあるペンなどではなく、毛筆が成せる線の不思議な美しさに惹かれるようだ。歴史の始めに絵画があり、象形文字を通じて文字が作られたと論じて人が描く線を重要視する米僊は、そこに日本画の基本を置いていた。それは東洋独特の、未来永劫失ってはならない日本の大切なものでもあるのだ。
 話は遡るが、明治10(1877)年に東京で、西洋のポンチ(「パンチ」の日本語読みで漫画のこと)雑誌を真似た『団々珍聞』が発刊されたのを皮切りに、全国に滑稽雑誌が生まれた。京都では『我楽多珍報』(1879 明治12)が創刊され、米僊は深く関わっていくことになる。この一連の運動は、近世の戯作、戯画、狂歌などの伝統を近代に継承したものとも考えられ、米僊はここでも重要な時代の橋渡しをしているのである。
 「・・当時粋時風流を専らとして、遊び楽しみし久保田米僊は草の家隣子、別号を米畔と称し誌上の絵画を執筆されたり。」(三浦おいろ[=黒田常太郎『我楽多珍報』の創立メンバー]回顧文)とあるように、粋で風流で愉しんで風刺漫画を描いていた米僊の姿が浮かんでくる。また「『我楽多珍報』の四人男」のひとりとして、「錦隣子(画家久保田米僊)・・四条派から出て西洋画法を折衷し、米僊派を創成した人である。我楽多珍報の表紙画から一切の風刺画まで、総て一人で担任して達筆を揮い、其外詩文歌謡何でも能くした。・・曽て豊太閤裂封冊の大作を絵画共進会に出品して、画名一時にあがり、東京に移住してから益評判が高く、其国民新聞の挿絵は殊に好評であった。惜しむべし失明して、晩年には画筆を捨てたが、驚く程記憶の強い人で、失明後にも絵に関する二三の著述があると聞いた。」(飯島花月[=飯島保作、長野県上田市の花月文庫を遺した実業家、江戸庶民文学研究家]の回顧より)と紹介されているように、米僊は画家、風刺漫画家、挿絵画家として活躍し評判は大変良かったのである。狂画と言われた風刺漫画を一手に担当し、米僊漫画ともいうべき、日本と西洋が交錯したようなまさに明治の時代を表現した独特の世界を作り上げている。また著作物で「滑稽画」の日本での歴史を語り、ヨーロッパのように「滑稽画」の地位が向上すべきだと説いている。まるで現今の、世界を圧巻する日本の漫画ブームを予知しているかのようである。

京都画壇の恩人
 京都の美術界にあっては、米僊は明治中期の日本画壇で改革を推進し、その基盤づくりに大きな功績を遺した重鎮である。京都の絵画の衰退を危惧した米僊は、幸野楳嶺、望月玉泉や巨勢小石などと京都画学校の設立運動を立ち上げ、南画の大家・田能村直入の建議書に続いて四名で建議書も出し、明治13 (1880)年、日本最初の画学校とも言われた京都府画学校の開設に漕ぎ着けた。上村松園(1875-1949)は、始めこの画学校で北宗の教授鈴木松年に学んでいる。また、「・・美術雑誌『煥美』というのがあって、いつかその雑誌で、松年先生と久保田米僊さんが画論の争論の花を咲かせた・・」という思い出も語っている。しかしまだ京都の絵画教育は画家の家塾で行われていたような時代で、人材が大いに輩出されるのは、後身の絵画専門学校を待たねばならなかった。
 また種々の共進会や博覧会、懇親会等を推進し、画家たちの出品を促すなど受容の場の開拓にも尽力した。「京都は美術の淵叢の地でありながら美術家団体が疎になっている」と嘆き、明治23(1890)年には幸野楳嶺らと京都美術協会を創設する。『京都美術協会雑誌』(1892 明治25創刊)には「海外のさまざまな国で、日本美術のブームが起こっている時に、日本美術のみなもとである京都において、美術工芸の進歩をはかる」ことが大切と趣旨を述べているが、この見識は、まさしく渡欧した米僊が現地でのジャポニスムを実際に見聞して得てきたものであった。
 米僊の先を見る眼と行動力のおかげで、遷都の憂き目に遭い沈滞しがちだった京都の日本画界が進展を続け、後の竹内栖鳳や国画創作協会等へと連なり、京都ならではの個性的な俊英たち(入江波光、榊原紫峰、村上華岳、小野竹喬、土田麦僊、岡本神草、甲斐庄楠音など)を産むことになる。その功績は甚大である。
 米僊と兄弟のように親しかった幸野楳嶺を師とする竹内栖鳳(1864-1942)は、米僊がパリ帰朝後出版した木版画集『米僊漫遊画乗』(1889 明治22 旅行絵日記のようなもの)に興味をそそられ渡欧(10年程後の明治33-34年に実現させる)を夢見たとの観測がある。また栖鳳は、「久保田米僊先生の追憶」((談)『美の国』1928 昭3)の中で、米僊と「単に面識を持っていると言う以上に、より内部的な深さの交渉を持っていた」と言い、また特に「有職故実の具(つぶ)さな研究と普及」などの業績を尊敬し、事実に反して米僊の正当な評価がなされていないと嘆いている。栖鳳は異なる流派の技法を混在して取り入れたことで、それまでの絵画の約束を破るとして「ぬえ鵺派」などと揶揄されたが、実物観察等の西洋手法を大胆に取り入れ新しい流派の予兆とも期待された。栖鳳が「内部的な深さで繋がっていた」米僊は、それに先駆けるようなトライアルを多々やっており、若い棲鳳(米僊と12歳違い)に多大な影響を与えたことは容易に想像できる。米僊は内田魯庵に「京都に将来有望な画家があるか」と聞かれ、「竹内棲鳳といふのがあると、米僊は口を極めて棲鳳の奇才と飽くなき努力とを盛んに称揚した」(内田魯庵著『バクダン』)という。米僊と栖鳳が互いの才能を認め合っていた、聞くも嬉しい美しい話である。
 近代京都画壇というと、文展以降、絵画専門学校以降だけに目を向ける傾向が強いが、元々あった古都京都の分厚い地盤に加えて、西洋の新しい風を試行錯誤しながら取り入れていく始まりからの流れがある訳で、その源流を捉え、母体作りの時代の凄さと面白さを含めての、自然体の京都画壇という見方を進めていくべきである。竹内栖鳳も草葉の陰からそう切望しているに違いない。
外国との触れ合い
 米僊は、時代や民族、立場などの違いを超えてものを観る感覚と教養を備えていた。その高い見識は、第四回パリ万国博覧会(1889 明治22<水中遊魚>出品・金賞受賞)で渡仏、またシカゴ万国博覧会(1893 明治26<鷲図>出品・受賞)で渡米し、外国人の面前で日本人として堂々と揮毫や講演をこなすなど、日本人画家としては早々に外国に触れることによって確かなものになった。日本画家としては渡邊省亭に次いでのフランス渡航である。ジャーナリスティックで冷静かつ鋭敏な観察眼と批判精神を兼ね備え、世界の中の日本と日本人を客観的に見ることを常に念頭においた、現在にも通ずる奇特な人である。
 パリ万国博覧会に参加のため横浜から仏郵船ヤンスール号で出立し、途中、上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン島・コロンボ海(現スリランカ)、エジプト・ホルトサイド、などを経てフランス・マルセイユに到着の一ヶ月にわたる船旅で、当時植民地の影響を受けたアジア人の悲惨な姿を目撃し、その旅行記はスケッチとともに『京都日報』(1889明22 創刊) 特別寄書家に中江兆民や徳富蘇峰らを擁する)に掲載された。同じアジア人として大いに感じるものがあり、彼のナショナリスティックな考え方を深めたことがその内容から読み取れる。例えば、「アジアの昔、文明は支那をもって中心としたので、ベトナム・チベット・朝鮮のような辺境の諸国の文物は、みな同一の感がある。しかし近年、西欧人がアジアに来てからは、その土人を遇するのに、奴隷のようにし、軍隊をおき、商権を握り、専制をもってその政治を行っている。はがゆいばかりである。」と述べ、岡倉天心に見られるような、アジア文明を欧州から護りたいと願う要素を備えていくことになる。
 しかしその反面で、フランスのリヨンでは絹織物と絵画の質の高さに驚き、パリでの万国博覧会ではヨーロッパ近代美術に率直に感心している。「東洋のような山水画が少なく残酷な場面や裸婦の絵が多いが、これらの悲壮・感慨・残忍などの人間の実態を描いた絵画は、図像の優美秀抜を描く東洋絵画が、高尚で温雅ではあるが娯楽の念を起こさせ人をして怠惰にするのに対して、人をして戦慄を覚えさせ奮発の念を起こさせる」と語っている。また彫刻の類は真実に迫っており、版画類が精巧を極めていると語り、ヨーロッパ美術の奥の深さを会得したことが伺える。西洋美術の日本にはない精妙さと、特に主題の取り方に大きな違いを認識し、観る人に与える影響、つまり絵画の持つ精神性と広汎性についての考えを新たにしたのだろう。そして自らの作画姿勢として「自分は両者の長所をとって考える」と述べ、その後伝統的なものと西洋との折衷をさらに模索していくことになる。なお、当時のヨーロッパに台頭していたアールヌーボー等の新潮流に反応している様子は見られない。
 また米僊は、フランス絵画に「東洋風」の影響があることを実見して驚いている。日本の美術工芸がヨーロッパ美術に強い影響を与えていたことは、解明が進んだ今ではそう珍しい事柄ではないが、米僊はジャポニスムを目の前で実際に確認した最初の頃の日本人であった。短い滞在期間(フランスで70日位、もっと長くいるつもりであったが、急用で早々と帰国の途についた)だったので米僊の思いを網羅できなかったが、ジャポニスムの盛況にしっかり注目している点は、後年研究が進む東西美術の交錯を予見するかのような、米僊の鋭い観察眼と先見の明を示している。なお、後年米僊は、ジャポニスムの立役者のひとりであり、1894年に来日したヘンリー・P・ブーイ(武威 Henry Pike Bowie フランス系アメリカ人)の日本画の師匠のひとりとなる。ブーイは『日本画入門書(On the Laws of Japanese Painting)』(1911 明44 米仏で出版)を著すが、これも何かの縁であったのだろう。ブーイのこの本は評判になり版を重ね、日本では、息子で仏学者・平野威馬雄により『日本画の描法』(1972 昭47)として翻訳出版された。
 米僊は渡仏の4年後、シカゴ万国博覧会(コロンブス博 1893)に出品し、また『国民新聞』の報道記者として渡米する。出品については「・・他に評価すべき作品としては、・・1889年のパリ万博で金賞を受賞した久保田米僊は兎を捕まえる鷲の絵<鷲の図>を精巧に描いている」(東京国立博物館『THE BOOK OF THE FAIR』Hubert Howe Bancroft, The Bancroft Companyの解説より )と紹介され、受賞(この博覧会では受賞の等級は設けられていない)している。特派報道記者としては、博覧会の徹底した情報のみならず、当時の船での海外旅行の様子や生活文化の違いなどにも鋭い洞察を加えてレポートとスケッチで報告し、また木版画図譜『閣龍世界博覧会 美術品画譜』を遺しており、その活躍には目覚ましいものがあった。パリではメール・ドリアン大蔵大臣夫人の夜会で日本画の揮毫をしたが、アメリカでもフィラデルフィア美術学校などで講演とともに席上揮毫しており、米僊の絵と日本画家の芸術性の高さが評判となったそうである。日本画の外国でのデモンストレーションで喝采を浴び、米僊は外国における画家の地位の高さに感激し、それ以来、日本の芸術家の地位向上を大きな課題にしたという。
ジャーナリストで従軍画家
 久保田米僊は、明治23(1890)年には、徳富蘇峰(1863-1957)の『国民新聞』の発刊に際し東京に移り入社、記者・挿絵画家として活躍した。近代におけるジャーナリストの先駆者としても大変な功績を残したのである。
 同志社の新島襄の愛弟子で、東京に出て雑誌『国民之友』を創刊していた蘇峰は、『国民新聞』発刊計画に際し、『京都日報』に編集長を送り準備を進めていた。一方、米僊はパリに行く前に蘇峰の民友社を訪ね、「美術を(少数の人に独占されるのではなく)国民のものに」したいと話し、平民主義を唱えていた蘇峰は深く共感したと伝えられ、ふたりは既に知り合っていた。『京都日報』に久保田米僊が現地から書き送り掲載されたアジア・ヨーロッパ紀行に、蘇峰はいたく感心し「何はともあれ先ず久保田氏を聘することを第一の条件」として米僊を招聘したという。また、ある旅館の軸物に網にかかった鯛が今にも跳ね出しそうな勢いに描かれているのに感動し、米僊を紹介してもらったという話もある。
 同じ年の1月23日に蘇峰の恩師・新島襄がこの世を去り、米僊は<新島襄臨終図>を描いており、これが『国民新聞』最初の揮毫となる。大切な恩師の臨終に招くなど、両者の信頼関係はよほど強いものだったと考えられる。以来蘇峰は挿絵については一切を米僊画伯にまかせているが、いかに蘇峰が米僊を高く評価し尊敬していたかが読み取れる。この時、徳富蘇峰28歳、久保田米僊38歳であった。
 翌年には、『国民新聞』の記者として日清戦争に派遣され、従軍画家として息子の米斎(長男)、金僊(次男)とともに活動する。日本画家としては最初の従軍画家となった。その後戦勝ムードの中、注文も多くあったようで日清戦争を題材にした絵画を描いているが、そういう時代の風をジャーナリストとしてより強く受けたことも一つの理由だろう。日頃から「時事を写生、記録し広く世間に伝えるため・・」と言い、「絵画の用」を重視し画家の社会貢献を考えていた米僊が、得意とした歴史画の手法を駆使して描いたのだろう。
 しかし彼の頭の中には、渡欧した際に実見した西欧絵画に、残虐悲痛な人間の実態が如実に写し出されていることが強烈に残っていた。画家たるもの、目の前で繰り広げられる戦争と戦争が成せるリアルな姿を、西洋の画家がそうであったように、人間の実像として絵にとどめておきたい本心が働いたと思われる。渡欧からの帰途に船の衝突沈没事故に遭い、林忠正(美術商 1878渡仏 1990 明治33パリ万博日本事務局事務官長歴任)らに助けられるが、忠正は「楼上より黒船を顧れば、今や全く沈没に瀕し、漸く艦体の半を現はす。時に遭難者の一人、悠々ノートブックを出し傾斜の状を写すものあり。是れ即ち久保田米僊君にして、仏国漫遊の帰途なりき。君、後素の神韻を極め、特に欧米の粋を探って、斯道を益せんとす。又斯る神喪魄飛の厄難に処して、悠然其態を写し、苟も天職の全うす可きを忘れず、又以て君の奮励熱心の凡ならざるを知る可し・・・」(『米僊画談』序文)と記しており、それまでの日本画家からは想像ができない米僊の姿勢が見えてくるのだ。日本画家にして既に近代的な西洋的な感覚を作画姿勢に持ち込んでいたのである。一方、絵画の構成は、例えば朝鮮の景観や建造物を取り入れるとか鷹や松を配置するなど象徴的であり、描き方は伝統的であり、そこに米僊独特のゆるやかな折衷が見て取れる。蘇峰は米僊の主題の選定について「天然と人事とを問わず、悉くこれを画題とし・・・」と述べている。伝統的な描法で西洋的な図柄を取り入れようとした例はすでに江戸後期からあるようだが、米僊は欧米で実際に美術に触れ、ジャーナリストとして広く見聞し、外国人に揮毫の実演を通して、そして東西を問わない画家の天職を悟ったはずである。その軌跡の結果としての米僊のトライアルは、日本美術史において非常に大きな意味を持っている。
日本人としての矜持
  進んで外国を見聞した久保田米僊だが、「日本人米仙」という印章を使っている(<延喜醸泉弥濃岳>1889 明治22 図版 #35・<海陸戦斗図>1894 明治27 参考図版 #7 )のはとても特異であり、日本人としての矜持を持つべくして持っていたと推察できる。そのような確かな眼と心で描いたから、日本の素晴らしい姿かたちとなり、そのような自信に溢れた確固たる筆さばきだから、見事なのであろう。近世から近代へと伝えられ、現代へと連なっていく日本文化の誇らしい有りようを、新鮮な感覚と卓越した画技で表現した画家なのである。米僊以降の画家たちの渡欧も続き、貪欲に西欧文化を摂取しつつ日本の伝統の踏襲を試みた画家も多かったが、彼は真っ先に外国に触れ西洋的な感覚を持ちながら、日本を殊更に強く意識した人だった。
 久保田米遷の絵画は決して旧くない。旧いと思えるとしたら、古来愛で伝えてきた、またそれゆえに画題になってきたほどの「日本の美しい姿かたち」を、今の私たちが忘れかけているだけの理由によるものである。ヴェルディのバレエ音楽「四季」(オペラ「シチリア島の夕べの祈り」より)を聴いて、現代風の音楽に親しんでいる人でも旧くさいなどとは思わないはずだ。このオペラは、1867(慶3)年の第一回パリ万博(米僊はこの時まだ16歳)のために書かれ、昨年のノーベル賞受賞者の歓迎コンサートでも演奏されたが、旧いなどとは感じず、むしろ新鮮な気持ちが呼び起こされたものだ。私たちがクラシック音楽を忘れていないから旧く感じないのである。「日本の美しい姿かたち」は決して忘れることがあってはならないし、旧いものなのではない。
 私たちは近代絵画というと、一気に革新的に(派手に?)挑んだトライアルな部分だけに目を向けてしまう。そこに現代に繋がっている流れや要素が見つかりやすいからであろう。文展以降、絵画専門学校以降の絵画だけではなく、それ以前のトライアルも見直してみると、むしろ懐古調の現在に通じる面白い魅力にはっとする。新しいものを摂取しつつ伝統的なものを残そうとする画家の努力の過程が見つかるからだ。その地道な過程にこそ日本の矜持を内包しているからである。それは、昨今の私たちが世界に誇れる宝物なのにそのことにさえ気づかず、絶対失ってはならぬものを失いかけている、その反省への重要な鍵なのだ。
 最近は、故事成語や格言とともに、歴史上の人物や偉人伝を語らなくなった。先人たちは日本だけに留まらず中国や韓国の偉人たちをも顕彰し、画家はその姿や状況を臨場感溢れる画面構成で孤高の精神の美しさとともに伝えようとしてきた。久保田米僊は歴史画家としても著名で、博識から導き出された歴史上の人物や事柄を生き生きと描いている。ところが、現代の世相は過去の偉人のお話を意識的に抜きにしている面すらあり、絵画の理解にも災いをもたらしている。最近の子供たちは偉人伝にあまり触れることもなく、その傾向は子供たちの父母の世代からすでに始まっていたようだ。過去に偉業を成した日本人が国際社会で注目されて初めて、「えっーそんな人が日本にいたのか」といった有様である。
  これでは自国のことさえ知らないおめでたい日本人が増え、ますます国際社会からはみ出てしまうだろう。自国の文化を正しく背負っていない人は絶対に尊敬されないのが国際社会の常であるからだ。いくら語学堪能で外国の事情に詳しくても、自分たちのことを真っ当に語れない人は受け容れてもらえない。それこそが恥なのである。海外でも教鞭をとる数学者の藤原正彦氏は「海外に出て戦う場合は経済など何の役にも立たない。自国の歴史、伝統とか生み出して来た文学、芸術、学問などの文化に誇りを持っているかどうかである」と述べているが、米僊は日本人の矜持を抱え日本人たる本懐を堂々と表現しており、外国人に注目される理由がそこにあると言えるだろう。

素直で柔らかい考え方
 「過労死」の最近の研究によると、過度の長時間労働がすべての原因ではなく、仕事にだけの専念没頭も一因になっているという。ものの見方や捉え方の固定化はストレスに対する柔軟性を弱めるそうだ。そもそも人間は固定されるようにできておらず、自然界の生き物と同じで、多様な方法を試しながら、つまり無駄をして、横道に逸れながら生きるものらしい。無駄をして知らなかった楽しみや幅広い人生を見つけることが多く、自分を固定化せずに自由に泳がせてみることも大事なのだ。米僊の生き方は無鉄砲と言われたくらい横道に逸れ続けたが、そのおかげで能力が磨かれ発揮されて偉業が成し遂げられた。昨今は目の前の費用対効果を声高く言い、人生の送り方にまで応用せんばかりであるが、効率ばかり求めると失うものが大きいのが人生である。今の風潮は有能な人材を埋もれさせている。米僊の視野の広さや無駄を恐れない生き方は私たちへの警鐘である。
 最近、韓国は娯楽と観光に対する割り切った考え方を押し出し、経済の活性化と集客に非常に熱心である。釜山海雲台(プサン・ヘウンデ)で、なくなりつつある白砂を人工的に運び入れて往事の美観を復旧させた。ハブ空港やハブ港への開発にも力を入れ、海外から人や物流を呼び込んでいる。外国人観光客も韓国の方が日本よりはるかに多い。是非はともかく、日本は世界中の人々が韓国を含めて東アジアと日本に気軽に来てくれればいい、という考え方でもっと柔軟に取り組んでいくべきであろう。近代日本の知識人が中国やアジアの文化から出発し、米僊もアジア文明をひとつとして捉えていた、その忘れられている考え方を見直してみる必要があるだろう。
 韓国ドラマは楽しく日本をはじめとする外国でも人気がある。王朝ドラマなどは時代考証も確かでない部分が多く、鵜呑みにできないのを理解したうえで観なければならないが、徹底した娯楽性で人々を楽しませている。私も時折観るが、どこか懐かしい人情味とともに、ドラマを通じて韓国人の感じ方や考え方が其処彼処に出てきておもしろいのだ。島国の日本とは違い、地続きで他国に接し、侵略、戦争、略奪等々の歴史の繰り返しであったことは、武力よりも知略に長けている方が功を奏しただろう、日本とは全然違う考えが基礎にあると想像できる。また、日本人は情感は豊かなのだが、事実や証拠にこだわるあまりどうもお話の展開を楽しまない傾向があるようで、ゆえにお話作りも下手で、社交下手で宣伝下手となる。お話作りがうまく長所のアピールに長けている、知略政治の歴史を持つ韓国の柔らかい考え方を少しは学びたいものだ。百年以上も前に国の行く末を憂え、「日本人米僊(米仙)」として、日本の美しい姿かたちを胸を張ってアピールした米僊を素直に見習いたいものだ。
おわりに
 米僊は、浅井忠もそうだったように、美術が殖産興業に実効があると主張した。工芸品などの価値はその巧拙によって決まるから、その原動力になる美術の振興が大切であるという考えである。最近、明治時代の工芸品がそのレベルの高さで世界の注目を浴びているが、現在の京都の伝統工芸にもまさにその考えが貫かれている。米僊は美術に多く触れることによって「人の気向が高尚になり・・」と説き、博物館や美術館の必要性を訴えている。芸術の為す人への効力は、人そのものを向上させて活発にし、ひいては国を豊かにすると説いているのである。彼は「鴨川仕込みの閑雅な風采」と言われた二枚目で、「パリ帰りらしくモダンな装いをした粋な紳士」で、やんちゃが嵩じて無鉄砲なところや日本人離れしたところもあったが、常に日本人の矜持を胸に堂々と生きた人だった。「酔っていても頗る傑作を描く非常な豪酒家」(明治30[1897]年に赴任した石川県工芸学校の後身・石川県立工業高等学校「我が母校の歴史探訪」より)でもあったらしい。晩年は目を患い失明するという不幸に襲われたが、執筆活動に専念し私たちに多くのものを遺してくれた。
 米僊は興味の幅が滅法広く、また多方面で業績を成したので、かえってひとつのことを極めたことにされずに日本画家として相応の名を遺すことになっていない。後世の私たちの怠惰ゆえである。「一芸に秀でた」人のことが分かりやすく親しみやすい世相では、声高で多芸多才な人を理解しようとするのを避けてきたようだ。いろいろなことに取り組み過ぎ思想的な分野でも気を吐いたために、牽制され注目を集めなかった節もある。竹内栖鳳が自分の絵画にいろいろなことを取り入れて「ぬえ鵺」と呼ばれたのなら、もっと多彩に多方面に挑戦し続けた久保田米僊は「おおぬえ大鵺」なのだろうか。しかし、混沌の世界状況下で今後日本が幸せに生き延びていくために、そんな狭窄的な理由で、徳富蘇峰が「君は現代丹青界の覇才なり」(『米僊画談』序文、註:丹青は赤と青、転じて絵画の意)と讃える宝物である先輩を、見習うこともなく誇りにすることもなく、むげに忘れ続ける余裕など全くないはずだ。心して素直で柔らかい考え方で見直す必要がある。キジの愛嬌に心安らぎ、そんなのどかな鳥を豊かに受け容れてきた精神風土に感謝し、米僊が誇りとした東洋の中の日本文化を一片たりとも失いたくない。私たちの宿題である。

2014(平成26)年10月   
本稿作成に当たり、米僊の明治初期におけるジャーナリステッィックな活動については、様々な文献の他に、今西一著『メディア都市京都の誕生―近代ジャーナリズムと風刺漫画』(平成11年 雄山閣刊)を主に参照させて頂きました。

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