星野画廊で開催した主な展覧会─91_1 |
久保田米僊-明治丹青界の覇才・・・・・星野万美子 |
はじめに |
何足もの草鞋を履いた米僊 |
京都画壇の恩人 京都の美術界にあっては、米僊は明治中期の日本画壇で改革を推進し、その基盤づくりに大きな功績を遺した重鎮である。京都の絵画の衰退を危惧した米僊は、幸野楳嶺、望月玉泉や巨勢小石などと京都画学校の設立運動を立ち上げ、南画の大家・田能村直入の建議書に続いて四名で建議書も出し、明治13 (1880)年、日本最初の画学校とも言われた京都府画学校の開設に漕ぎ着けた。上村松園(1875-1949)は、始めこの画学校で北宗の教授鈴木松年に学んでいる。また、「・・美術雑誌『煥美』というのがあって、いつかその雑誌で、松年先生と久保田米僊さんが画論の争論の花を咲かせた・・」という思い出も語っている。しかしまだ京都の絵画教育は画家の家塾で行われていたような時代で、人材が大いに輩出されるのは、後身の絵画専門学校を待たねばならなかった。 また種々の共進会や博覧会、懇親会等を推進し、画家たちの出品を促すなど受容の場の開拓にも尽力した。「京都は美術の淵叢の地でありながら美術家団体が疎になっている」と嘆き、明治23(1890)年には幸野楳嶺らと京都美術協会を創設する。『京都美術協会雑誌』(1892 明治25創刊)には「海外のさまざまな国で、日本美術のブームが起こっている時に、日本美術のみなもとである京都において、美術工芸の進歩をはかる」ことが大切と趣旨を述べているが、この見識は、まさしく渡欧した米僊が現地でのジャポニスムを実際に見聞して得てきたものであった。 米僊の先を見る眼と行動力のおかげで、遷都の憂き目に遭い沈滞しがちだった京都の日本画界が進展を続け、後の竹内栖鳳や国画創作協会等へと連なり、京都ならではの個性的な俊英たち(入江波光、榊原紫峰、村上華岳、小野竹喬、土田麦僊、岡本神草、甲斐庄楠音など)を産むことになる。その功績は甚大である。 米僊と兄弟のように親しかった幸野楳嶺を師とする竹内栖鳳(1864-1942)は、米僊がパリ帰朝後出版した木版画集『米僊漫遊画乗』(1889 明治22 旅行絵日記のようなもの)に興味をそそられ渡欧(10年程後の明治33-34年に実現させる)を夢見たとの観測がある。また栖鳳は、「久保田米僊先生の追憶」((談)『美の国』1928 昭3)の中で、米僊と「単に面識を持っていると言う以上に、より内部的な深さの交渉を持っていた」と言い、また特に「有職故実の具(つぶ)さな研究と普及」などの業績を尊敬し、事実に反して米僊の正当な評価がなされていないと嘆いている。栖鳳は異なる流派の技法を混在して取り入れたことで、それまでの絵画の約束を破るとして「ぬえ鵺派」などと揶揄されたが、実物観察等の西洋手法を大胆に取り入れ新しい流派の予兆とも期待された。栖鳳が「内部的な深さで繋がっていた」米僊は、それに先駆けるようなトライアルを多々やっており、若い棲鳳(米僊と12歳違い)に多大な影響を与えたことは容易に想像できる。米僊は内田魯庵に「京都に将来有望な画家があるか」と聞かれ、「竹内棲鳳といふのがあると、米僊は口を極めて棲鳳の奇才と飽くなき努力とを盛んに称揚した」(内田魯庵著『バクダン』)という。米僊と栖鳳が互いの才能を認め合っていた、聞くも嬉しい美しい話である。 近代京都画壇というと、文展以降、絵画専門学校以降だけに目を向ける傾向が強いが、元々あった古都京都の分厚い地盤に加えて、西洋の新しい風を試行錯誤しながら取り入れていく始まりからの流れがある訳で、その源流を捉え、母体作りの時代の凄さと面白さを含めての、自然体の京都画壇という見方を進めていくべきである。竹内栖鳳も草葉の陰からそう切望しているに違いない。 外国との触れ合い 米僊は、時代や民族、立場などの違いを超えてものを観る感覚と教養を備えていた。その高い見識は、第四回パリ万国博覧会(1889 明治22<水中遊魚>出品・金賞受賞)で渡仏、またシカゴ万国博覧会(1893 明治26<鷲図>出品・受賞)で渡米し、外国人の面前で日本人として堂々と揮毫や講演をこなすなど、日本人画家としては早々に外国に触れることによって確かなものになった。日本画家としては渡邊省亭に次いでのフランス渡航である。ジャーナリスティックで冷静かつ鋭敏な観察眼と批判精神を兼ね備え、世界の中の日本と日本人を客観的に見ることを常に念頭においた、現在にも通ずる奇特な人である。 パリ万国博覧会に参加のため横浜から仏郵船ヤンスール号で出立し、途中、上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン島・コロンボ海(現スリランカ)、エジプト・ホルトサイド、などを経てフランス・マルセイユに到着の一ヶ月にわたる船旅で、当時植民地の影響を受けたアジア人の悲惨な姿を目撃し、その旅行記はスケッチとともに『京都日報』(1889明22 創刊) 特別寄書家に中江兆民や徳富蘇峰らを擁する)に掲載された。同じアジア人として大いに感じるものがあり、彼のナショナリスティックな考え方を深めたことがその内容から読み取れる。例えば、「アジアの昔、文明は支那をもって中心としたので、ベトナム・チベット・朝鮮のような辺境の諸国の文物は、みな同一の感がある。しかし近年、西欧人がアジアに来てからは、その土人を遇するのに、奴隷のようにし、軍隊をおき、商権を握り、専制をもってその政治を行っている。はがゆいばかりである。」と述べ、岡倉天心に見られるような、アジア文明を欧州から護りたいと願う要素を備えていくことになる。 しかしその反面で、フランスのリヨンでは絹織物と絵画の質の高さに驚き、パリでの万国博覧会ではヨーロッパ近代美術に率直に感心している。「東洋のような山水画が少なく残酷な場面や裸婦の絵が多いが、これらの悲壮・感慨・残忍などの人間の実態を描いた絵画は、図像の優美秀抜を描く東洋絵画が、高尚で温雅ではあるが娯楽の念を起こさせ人をして怠惰にするのに対して、人をして戦慄を覚えさせ奮発の念を起こさせる」と語っている。また彫刻の類は真実に迫っており、版画類が精巧を極めていると語り、ヨーロッパ美術の奥の深さを会得したことが伺える。西洋美術の日本にはない精妙さと、特に主題の取り方に大きな違いを認識し、観る人に与える影響、つまり絵画の持つ精神性と広汎性についての考えを新たにしたのだろう。そして自らの作画姿勢として「自分は両者の長所をとって考える」と述べ、その後伝統的なものと西洋との折衷をさらに模索していくことになる。なお、当時のヨーロッパに台頭していたアールヌーボー等の新潮流に反応している様子は見られない。 また米僊は、フランス絵画に「東洋風」の影響があることを実見して驚いている。日本の美術工芸がヨーロッパ美術に強い影響を与えていたことは、解明が進んだ今ではそう珍しい事柄ではないが、米僊はジャポニスムを目の前で実際に確認した最初の頃の日本人であった。短い滞在期間(フランスで70日位、もっと長くいるつもりであったが、急用で早々と帰国の途についた)だったので米僊の思いを網羅できなかったが、ジャポニスムの盛況にしっかり注目している点は、後年研究が進む東西美術の交錯を予見するかのような、米僊の鋭い観察眼と先見の明を示している。なお、後年米僊は、ジャポニスムの立役者のひとりであり、1894年に来日したヘンリー・P・ブーイ(武威 Henry Pike Bowie フランス系アメリカ人)の日本画の師匠のひとりとなる。ブーイは『日本画入門書(On the Laws of Japanese Painting)』(1911 明44 米仏で出版)を著すが、これも何かの縁であったのだろう。ブーイのこの本は評判になり版を重ね、日本では、息子で仏学者・平野威馬雄により『日本画の描法』(1972 昭47)として翻訳出版された。 米僊は渡仏の4年後、シカゴ万国博覧会(コロンブス博 1893)に出品し、また『国民新聞』の報道記者として渡米する。出品については「・・他に評価すべき作品としては、・・1889年のパリ万博で金賞を受賞した久保田米僊は兎を捕まえる鷲の絵<鷲の図>を精巧に描いている」(東京国立博物館『THE BOOK OF THE FAIR』Hubert Howe Bancroft, The Bancroft Companyの解説より )と紹介され、受賞(この博覧会では受賞の等級は設けられていない)している。特派報道記者としては、博覧会の徹底した情報のみならず、当時の船での海外旅行の様子や生活文化の違いなどにも鋭い洞察を加えてレポートとスケッチで報告し、また木版画図譜『閣龍世界博覧会 美術品画譜』を遺しており、その活躍には目覚ましいものがあった。パリではメール・ドリアン大蔵大臣夫人の夜会で日本画の揮毫をしたが、アメリカでもフィラデルフィア美術学校などで講演とともに席上揮毫しており、米僊の絵と日本画家の芸術性の高さが評判となったそうである。日本画の外国でのデモンストレーションで喝采を浴び、米僊は外国における画家の地位の高さに感激し、それ以来、日本の芸術家の地位向上を大きな課題にしたという。 |
ジャーナリストで従軍画家 久保田米僊は、明治23(1890)年には、徳富蘇峰(1863-1957)の『国民新聞』の発刊に際し東京に移り入社、記者・挿絵画家として活躍した。近代におけるジャーナリストの先駆者としても大変な功績を残したのである。 同志社の新島襄の愛弟子で、東京に出て雑誌『国民之友』を創刊していた蘇峰は、『国民新聞』発刊計画に際し、『京都日報』に編集長を送り準備を進めていた。一方、米僊はパリに行く前に蘇峰の民友社を訪ね、「美術を(少数の人に独占されるのではなく)国民のものに」したいと話し、平民主義を唱えていた蘇峰は深く共感したと伝えられ、ふたりは既に知り合っていた。『京都日報』に久保田米僊が現地から書き送り掲載されたアジア・ヨーロッパ紀行に、蘇峰はいたく感心し「何はともあれ先ず久保田氏を聘することを第一の条件」として米僊を招聘したという。また、ある旅館の軸物に網にかかった鯛が今にも跳ね出しそうな勢いに描かれているのに感動し、米僊を紹介してもらったという話もある。 同じ年の1月23日に蘇峰の恩師・新島襄がこの世を去り、米僊は<新島襄臨終図>を描いており、これが『国民新聞』最初の揮毫となる。大切な恩師の臨終に招くなど、両者の信頼関係はよほど強いものだったと考えられる。以来蘇峰は挿絵については一切を米僊画伯にまかせているが、いかに蘇峰が米僊を高く評価し尊敬していたかが読み取れる。この時、徳富蘇峰28歳、久保田米僊38歳であった。 翌年には、『国民新聞』の記者として日清戦争に派遣され、従軍画家として息子の米斎(長男)、金僊(次男)とともに活動する。日本画家としては最初の従軍画家となった。その後戦勝ムードの中、注文も多くあったようで日清戦争を題材にした絵画を描いているが、そういう時代の風をジャーナリストとしてより強く受けたことも一つの理由だろう。日頃から「時事を写生、記録し広く世間に伝えるため・・」と言い、「絵画の用」を重視し画家の社会貢献を考えていた米僊が、得意とした歴史画の手法を駆使して描いたのだろう。 しかし彼の頭の中には、渡欧した際に実見した西欧絵画に、残虐悲痛な人間の実態が如実に写し出されていることが強烈に残っていた。画家たるもの、目の前で繰り広げられる戦争と戦争が成せるリアルな姿を、西洋の画家がそうであったように、人間の実像として絵にとどめておきたい本心が働いたと思われる。渡欧からの帰途に船の衝突沈没事故に遭い、林忠正(美術商 1878渡仏 1990 明治33パリ万博日本事務局事務官長歴任)らに助けられるが、忠正は「楼上より黒船を顧れば、今や全く沈没に瀕し、漸く艦体の半を現はす。時に遭難者の一人、悠々ノートブックを出し傾斜の状を写すものあり。是れ即ち久保田米僊君にして、仏国漫遊の帰途なりき。君、後素の神韻を極め、特に欧米の粋を探って、斯道を益せんとす。又斯る神喪魄飛の厄難に処して、悠然其態を写し、苟も天職の全うす可きを忘れず、又以て君の奮励熱心の凡ならざるを知る可し・・・」(『米僊画談』序文)と記しており、それまでの日本画家からは想像ができない米僊の姿勢が見えてくるのだ。日本画家にして既に近代的な西洋的な感覚を作画姿勢に持ち込んでいたのである。一方、絵画の構成は、例えば朝鮮の景観や建造物を取り入れるとか鷹や松を配置するなど象徴的であり、描き方は伝統的であり、そこに米僊独特のゆるやかな折衷が見て取れる。蘇峰は米僊の主題の選定について「天然と人事とを問わず、悉くこれを画題とし・・・」と述べている。伝統的な描法で西洋的な図柄を取り入れようとした例はすでに江戸後期からあるようだが、米僊は欧米で実際に美術に触れ、ジャーナリストとして広く見聞し、外国人に揮毫の実演を通して、そして東西を問わない画家の天職を悟ったはずである。その軌跡の結果としての米僊のトライアルは、日本美術史において非常に大きな意味を持っている。 日本人としての矜持 進んで外国を見聞した久保田米僊だが、「日本人米仙」という印章を使っている(<延喜醸泉弥濃岳>1889 明治22 図版 #35・<海陸戦斗図>1894 明治27 参考図版 #7 )のはとても特異であり、日本人としての矜持を持つべくして持っていたと推察できる。そのような確かな眼と心で描いたから、日本の素晴らしい姿かたちとなり、そのような自信に溢れた確固たる筆さばきだから、見事なのであろう。近世から近代へと伝えられ、現代へと連なっていく日本文化の誇らしい有りようを、新鮮な感覚と卓越した画技で表現した画家なのである。米僊以降の画家たちの渡欧も続き、貪欲に西欧文化を摂取しつつ日本の伝統の踏襲を試みた画家も多かったが、彼は真っ先に外国に触れ西洋的な感覚を持ちながら、日本を殊更に強く意識した人だった。 久保田米遷の絵画は決して旧くない。旧いと思えるとしたら、古来愛で伝えてきた、またそれゆえに画題になってきたほどの「日本の美しい姿かたち」を、今の私たちが忘れかけているだけの理由によるものである。ヴェルディのバレエ音楽「四季」(オペラ「シチリア島の夕べの祈り」より)を聴いて、現代風の音楽に親しんでいる人でも旧くさいなどとは思わないはずだ。このオペラは、1867(慶3)年の第一回パリ万博(米僊はこの時まだ16歳)のために書かれ、昨年のノーベル賞受賞者の歓迎コンサートでも演奏されたが、旧いなどとは感じず、むしろ新鮮な気持ちが呼び起こされたものだ。私たちがクラシック音楽を忘れていないから旧く感じないのである。「日本の美しい姿かたち」は決して忘れることがあってはならないし、旧いものなのではない。 私たちは近代絵画というと、一気に革新的に(派手に?)挑んだトライアルな部分だけに目を向けてしまう。そこに現代に繋がっている流れや要素が見つかりやすいからであろう。文展以降、絵画専門学校以降の絵画だけではなく、それ以前のトライアルも見直してみると、むしろ懐古調の現在に通じる面白い魅力にはっとする。新しいものを摂取しつつ伝統的なものを残そうとする画家の努力の過程が見つかるからだ。その地道な過程にこそ日本の矜持を内包しているからである。それは、昨今の私たちが世界に誇れる宝物なのにそのことにさえ気づかず、絶対失ってはならぬものを失いかけている、その反省への重要な鍵なのだ。 最近は、故事成語や格言とともに、歴史上の人物や偉人伝を語らなくなった。先人たちは日本だけに留まらず中国や韓国の偉人たちをも顕彰し、画家はその姿や状況を臨場感溢れる画面構成で孤高の精神の美しさとともに伝えようとしてきた。久保田米僊は歴史画家としても著名で、博識から導き出された歴史上の人物や事柄を生き生きと描いている。ところが、現代の世相は過去の偉人のお話を意識的に抜きにしている面すらあり、絵画の理解にも災いをもたらしている。最近の子供たちは偉人伝にあまり触れることもなく、その傾向は子供たちの父母の世代からすでに始まっていたようだ。過去に偉業を成した日本人が国際社会で注目されて初めて、「えっーそんな人が日本にいたのか」といった有様である。 これでは自国のことさえ知らないおめでたい日本人が増え、ますます国際社会からはみ出てしまうだろう。自国の文化を正しく背負っていない人は絶対に尊敬されないのが国際社会の常であるからだ。いくら語学堪能で外国の事情に詳しくても、自分たちのことを真っ当に語れない人は受け容れてもらえない。それこそが恥なのである。海外でも教鞭をとる数学者の藤原正彦氏は「海外に出て戦う場合は経済など何の役にも立たない。自国の歴史、伝統とか生み出して来た文学、芸術、学問などの文化に誇りを持っているかどうかである」と述べているが、米僊は日本人の矜持を抱え日本人たる本懐を堂々と表現しており、外国人に注目される理由がそこにあると言えるだろう。 |
素直で柔らかい考え方 |
2014(平成26)年10月 |
本稿作成に当たり、米僊の明治初期におけるジャーナリステッィックな活動については、様々な文献の他に、今西一著『メディア都市京都の誕生―近代ジャーナリズムと風刺漫画』(平成11年 雄山閣刊)を主に参照させて頂きました。 |
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