「川端弥之助と春陽会の仲間たち」展 2015年9月15日 ~ 10月10日

川端弥之助と春陽会 ・・・・・・・ 星野万美子

はじめに

 遠い昔から海外との交流を自分流にこなして発展してきた我が国だが、近代に押し寄せた世界的なうねりの渦中で、精神的に物理的に迫られた変換は前代未聞のものだった。初めて本格的に見聞きする西洋の物事にただ驚き圧倒されてコピーするだけなら容易かっただろう。当時の人々は、それを貪欲に取り入れつつ伝統と遺産を護り、日本流のより良い前進のために奮闘した。その作業は複雑を極めたことだろうが、アジア諸国の中でも先陣を切って事に当たったゆえ今日の繁栄があるとも言える。現代を形作る重大な基礎になった近代でありながら、複雑さゆえであるのか、後の不幸な世界との戦争にまみれた混沌が暗い印象を与えているせいなのか、そこにあった希望や理想や夢に裏打ちされた地道な活動はまだまだ知られていない。

 近代洋画の分野でも一部を除いて紹介は甚だ遅れている。近代以前には存在せず、近代に発端を持つ日本の洋画と画家たちの実態は、ご多分に漏れず周知されているとは言い難い。閉鎖的な従来画の保護や西洋画排斥の悲運の過去を乗り越え、日本人の美の蓄積を生かしながら西洋画の本質をマスターしようと試行錯誤し、根気強く歩み続けた画家たちの軌跡を辿ると、まさに初期の春陽会(この展覧会では大正11年創立から昭和10年代頃までとしている)もそうであったが、私たちが置き去りにしたまま気がついていない日本の洋画の魅力が再発見できるのである。その発見は、以後の日本のアートとその行く末を本気で考察するために外せないヒントになるだろう。そこに、全身全霊をかけて洋画と取り組んだ真剣な画家がおり、油絵の長い歴史を持つ西洋人でさえ真似のできない、日本的(あるいは東洋的)な発想を持つ個性的な洋画が存在するからだ。

 現在、日本の多岐にわたる高度な研究や技術と多方面の有・無形文化財はもとより、日本食や「おもてなし」などの、古来私たちが自然体でやってきた生活に根付いた文化が世界中から注目を浴びてきている。「えっ—、何でそんなことがもてはやされるの?」と驚くが、日本人の考え方生き方そのもの、即ち先人の智恵が世界の人に見直されている表れだろう。自分たちが長年良いと信じてやってきた事柄にはもっと自信を持つべきで、洋画の良さは西洋のものだけにあらず、数々の先輩画家たちが智を総集して築き上げてきた日本の洋画はもっと顕彰されて然るべきである。

日本的洋画の誕生

 レオナール・フジタは、油絵に面相筆を駆使して日本画風の流麗な線描を大胆に施し、数百年の歴史がある西洋絵画に新しい境地を切り開いたとしてヨーロッパの人たちを驚かせ、人気を博した。この時代、日本国内においても、西洋画の精神やテクニックを習得するだけではなく、日本の伝統的な美の感覚と発想、技術を加えて盛り込むことに意義を見出そうとする画家は多かったのである。「西洋気触れ」という言葉が流行ったくらいに、西洋の物事はいろいろな分野で私たちを激しく強く動かした。その取り入れ方には千差万別があるが、常に高みを見つめていた誇りある画家たちは、日本人の発想を洋画に素直に反映することを忘れなかったのである。西洋にはない、新鮮な魅力が潜んでいる日本の洋画が誕生したのだ。

 その魅力を語る時に忘れてはならないのが、日本の文化は特に東洋との長い交流を通して成熟したという点で、「日本的」と言う時は「東洋的」を大いに含むものであるということだ。国境を意識しない美術の世界では特にこの傾向が強い。この頃の洋画に中国、台湾、韓国や沖縄(琉球)の画題が多く見られるのは、近くの異国というよりも同じ東洋という、今よりももっと近しい感覚で見ていたからなのだ。当時の日本洋画の魅力のひとつには、初めて見る西洋の社会や文物や空気を、世界の情報が容易く手に入る今の私たちには想像もつかない新鮮さで、西洋人が到底持ち得ることがない東洋の感覚で体得した、その大きな感動が作品(主に滞欧作品であるが)を通じて生き生きと伝わってくることである。またひとつには、伝統である日本画の精神と技法、あるいは日本人の美意識を根底に持つ日本を多分に意識した洋画という点において名作が多く、日本ならではの味わいのある作品が私たちの心を打つのだ。星野画廊コレクションに関係作品が多い所以でもある。

 初期の春陽会では、画家の頻繁な入退会など紆余曲折あったが、一貫して各々の個性が満ちあふれる芸術性豊かな作品が発表された。西洋への限りない憧れと、それに相対する日本(あるいは東洋)のものへの愛着とが交錯する不思議な感性を率直に表現し、囚われがなく、日本画的南画的要素まで垣間見ることができる、なぜか安らいで面白い作品が目白押しである。春の陽射しに包まれ、西洋も東洋もある、遠い昔から変わらない自然との共存でくつろいでいるような懐かしさ、それでいて力強くピリッと頭脳を刺激してくれる快い鋭さを含んだ作品群は、私たちを今でも高揚させ癒してくれる。何かというと変化に重きを置き、強くてアピール力のあるものを賞賛し、流派としてまとまることを潔しとする風潮があるが、そうではない、静かに美しく、時に刺激的に脈打つ絵画の本質の部分は、あまり変わらずに受け継がれて感動の世界に生かされているもので、そういうものの大切さを示唆しているような絵が多い。

春陽会—否定は楽、肯定は難

 春陽会の歴史を見るに、洋画においても既に「旧い」と「新しい」との狭間で多様な意見や考え方が混交した中で、よくもこれだけの斬新な思考で成立が叶ったものだと思える。切羽詰まっていただけではない、時代のせいだけではない、強い何かが彼らを突き動かしたのだろう。受け入れられないものや慣れないもの、違ったものを否定するのは楽で、それ等を幾重にも認めて肯定してより良いものへと向かうのは非常に難しい。しかし芸術の原点に還ろうとする力はそれをも凌いだのである。

 春陽会は、大正11年(1922)に、日本美術院洋画部、太平洋画会、光風会、草土社などから、また梅原龍三郎などの個性豊かな画家たちが集まり、流派に囚われず自然に合流してできた在野の団体である。設立趣意書に「春陽会は 従来 屢々見たる如き 既成会への社会対抗として興らず 単なる芸術家の心を以て 因縁相熟したるものです」、「近来 官野の展覧会の多くに弥漫せる 展覧会の芸術 所謂会場芸術なる悪趣味を駆逐せんが為に」とある。官展系でなく、同じく在野の二科会でもなく、会場芸術を目指すでもなく、中心人物である小杉未醒が「我々は各人主義の集団である」と語ったように、各々の個性を重んじて芸術の原点を見つめようとしたのである。自由闊達であるべき芸術の主義に、組織として一致を求め続けることは元来無理があり、春陽会が決して難しく突き詰めようとしなかったところは、芸術の世界においてはむしろ長所であった。そのリベラルな思考が春陽会創立の大きな特徴になっており、種々の作品に反映された。培われた様々な日本流が作品に存分に生かされる場を提供したとも言えるだろう。

 春陽会の設立趣意は、後に興る国画会、1930年協会、独立美術協会などの趣旨にさえ見られない、画壇人としての客観性を重視しより良い在り方を純粋に目指していたと言え、油絵だけに停まらず、第1回展より特設された水墨・素描は素描室の新設(大正15)、他にも挿絵室(昭和2)、版画室(昭和3)、研究所(昭和4)の設置へと拡大発展し、名を成した各分野の画人が多数活躍することへと繋がっていく。

 春陽会第8回展(昭和5)について、「近代フランス風の、清新な潮風に帆を揚げながら、狭い入江を抜け出て洋々たる海原へ—さうした積極的な心持が最近の春陽会に動いてることは否定できないだらうと思う。過去に兎もすると独善的な低徊趣味がつきまとってゐた。今は遥にひろい自由な境地に向かって進みつつある。これは勿論慶ぶ可き現象である。しかも、その為に春陽会は日本的な本来の面目を少しも失ってはゐない。唯だ自分の世界を拡大して行っただけである」(荒城秀夫・『みづゑ』昭和5年5月号)と評されたように、初期の少々のごたつきを乗り越え、創立時の画家たちとともに、フランスからの新帰朝者がもたらしたさらに新しい風を取り込んで、日本人の持つ美感と情感を盛り込んだ洋画を発表した。いわば春陽会のピークを成したのであった。

 京都に生まれフランスで学び、京都を終生愛し続けて、春陽会を主たる発表の場(帰国直後大正14年から出品を続ける)とした川端弥之助もそういう状況の中で活躍した得難い画家である。

川端弥之助—絵への傾倒

 川端弥之助は、明治26年(1893)、京都・中京(当時は今の中京区よりも狭い六角堂界隈を言う)の大店であった乾物問屋「澤彌」に生まれた。京都でも旧いこの中京周辺と西陣界隈は、近代に秀逸な画家を多数輩出していることで知られる。同じ学校出身の洋画家の一例としては、安井曾太郎は5歳、須田国太郎は3歳上で、村山槐多は2歳下だった。川端は8歳の時に父を失い、その後一家は問屋を続けることはなかったようだ。

 川端弥之助は、上京し慶應義塾大学で法律を学んだが、祖母と親交があった津田青楓(同じく京都・中京の出身 洋画家・日本画家 フランス留学を終え東京に出て夏目漱石と交流していた頃と思われる)の画室を訪ねるうちに絵に興味を持っていくのである。銀座に田中喜作が開いた田中屋画廊での「澤部清五郎帰朝記念会」や、神田・琅玕洞での「梅原龍三郎滞欧展」を観て感激し、法律は学んだものの、画家出身が多い土地に生まれ育ち、熱い心と芸術的センスを備えていた彼は、次第に絵画鑑賞から制作へと興味を示していく。彼は「眼のあたりに新しい画壇の推移に接し得たことは幸せであった」と述べている。

 姉のキサが浅井忠門下の長谷川良雄と結婚したことも影響したと思われるが、川端弥之助は卒業して帰京まもなく、澤部清五郎の門下として関西美術院(院長は伊藤快彦 黒田重太郎・澤部清五郎・都鳥英喜が指導 三輪四郎や向井潤吉・近藤悠三・国盛義篤・橋本節哉等が学んでいた頃)に通い始める。翌大正9年には第7回二科展で初入選(<桃>)を果たし、本格的な画家人生が始まったのである。

川端弥之助の青春−華やかな渡仏

 川端弥之助は、大正11年(10月 箱根丸で出立)から14年にかけて渡仏する。往路、ヨーロッパから帰国する田中善之助が乗船していた椎名丸と行き違っている。ルノアールが逝って3年、モディリアニが逝って2年という頃だった。黒田重太郎の紹介でパリのアカデミー・コラロッシュでシャルル・ゲランに師事し、同室には坂本繁二郎、小山敬三、霜鳥之彦がいた。同アカデミーのラファエル・コランは既に亡くなっていた。大正13年にサロン・ドートンヌに<エッフェル塔>が入選し、留学中にはエジプト、イギリス、オランダ、ベルギー、スペイン、イタリア、スイスを巡遊している。

 青春時代の川端がパリにいた頃は、美術の新思潮が渦巻く中、エコール・ド・パリの時代でもあり、世界中から芸術を模索する画家たちが集まってしのぎを削っていた。日本からも多くの画家が入れ替わり立ち替わり留学した華やかな時代である。当の川端はそんな風を十分に受けながらも、画業においては動じることなくゲランのオーソドックスな技法を尊奉し、アカデミックな素描と油絵に没頭していたのである。それは真底彼の望むところだったのではないだろうか。シャルル・ゲラン(1875-1939)は、ギュスターブ・モローに師事しセザンヌに傾倒した画家で、その堅実な仕事ぶりはいかにも保守的傾向をもつ美術アカデミーらしかったという。同じくゲランに習った小山敬三が「絵画を基礎的から究め、クラシックに通じる仕事をしている人と思ったから師事した。ゲランは教えることが上手でかつ熱心な人だった」と言っている。特に絵の骨格(堅牢な構図、構図の強度の追求)を大切にするよう指導した人である。

 川端弥之助がゲランではなく、黒田清輝らを指導したコランに師事していたらどうだったかという仮説を立てて考えても、凡人では考え及ばないものを内に秘めつつ素直にやり通す律儀さが真骨頂、と言われる彼は、きっと原点を求めてあくまでオーソドックスな技法を見つめ直しただろう。ゲランは川端にとって最適の先生だったのではないだろうか。彼のその後の絵を観るに、何があっても揺るがない熱い信念が強くあったと感じられてならない。

京都の近代化—岡崎周辺

 岡崎にある京都市動物園で、この7月5日、広く新しくなった「ゾウの森」を前に、日本とラオス国交樹立60年を記念して4頭の子ゾウを贈ってくれた同国のトンシン首相を迎え寄贈記念碑除幕式が行われた。京都の近代化といえば岡崎の地を忘れることはできないが、現在その再築が進んでおり京都の文化の再強化を願ってきた人々の夢が目の前で動いている。動物園の改修もそのひとつだが、京都大学野生動物研究センターとともに動物の保護や繁殖に取り組んでいる姿勢はすばらしく、最近はキリンの繁殖などにも成果をあげており、ラオスからの4頭の子ゾウもその目的に添って贈られたそうである。都市化が進みきった現在では珍しい街中にある動物園だが、これも大切な京都の近代遺産(明治36年開園、日本で2番目に旧い)のひとつで、日本初の繁殖の成功例が多いことでも有名である。後世の人たちが、遺産を受け継ぎその意志を発展させたかたちで維持していく姿勢は感動的でさえある。

 鴨川から東山にかけて広がる岡崎(昔は「白河」と呼ばれた)を中心とするこの地域は、平安時代に貴族の別荘や六勝寺(「勝」の字が付く六つの寺 院政時代に天皇や中宮の発願で建てられた)などが造営され院政の拠点となった。名所旧跡が立ち並び、明治の近代化が推進され、現在は京都市美術館、京都国立近代美術館、京都府立図書館、京都会館(ロームシアター京都として来年1月オープン予定)、みやこメッセ(京都市勧業館)などがあり、文化の中心を成す区域として発展してきた。また隣接して近代に建てられた南禅寺別荘群は、今でも数カ所その美しい姿のまま遺されている。

 今年、岡崎一帯は京都市域では第一号となる国の重要文化的景観に選定されることが決定した。平安時代からの文化的意義に加えて、明治維新の遷都後の都市衰退を危惧して、琵琶湖疏水の整備と水力発電事業や路面電車営業などの日本初の大事業に取り組み、平安神宮創建と時代祭、内国勧業博覧会の開催などを行い、明治の近代化の象徴になった地である。そこはまた大地震で六勝寺が壊滅したところでもあり、花折断層の最末端かと考えられもする地だが、皮肉にもそこからは粟田焼の良い粘土が採れ、大田垣蓮月などの文人墨客にも好まれた山紫水明の地でもある。

川端弥之助のアトリエとフランス小話

 幕末の頃、頼山陽が住居の中に造った書斎「山紫水明之処」(東三本木にあり、鴨川を隔てた向かい側が岡崎周辺 現在その書斎のみが保存されている)のことを、川端弥之助は「いながらにして東山を一望する格好の一宇である」と言い、「京都の自然の景観の美は実にこの山紫水明の形容に尽きる。人口の建造物にしても殊に三方に連なる山々のどれかを背景としない画題は少ないと言っても過言ではない」と述べている。

 川端弥之助は、生まれたのは京都の真ん中だが、東山により近い岡崎の隣接、聖護院の地に暮らした。私たちはこの辺りで長年暮らし、明治・大正・昭和の近代絵画を主題として画廊活動もやってきたので殊更に親しみ深いものがある。川端のアトリエは、その頃まだ聖護院の森と聖護院大根畑があって広々した所に、突如現れたモダンな建築だった。一緒に散歩していた新婚の夫人に「前にいっぺんこの辺に来た時キリスト教会がありました。ああ、あれですがな」と自分の家を指差して言ったという逸話から想像するに、余程目立っていたのだろう。耐震性を意識した木材を頑丈に組み込んだ構造を持つ欧風建築で、自らがデザインした内装と家具に囲まれ、クラーク博士元所有のロッキングチェアーを愛用していたという。このアトリエで、集まった芸術家諸氏に訥々と語り、時にスペイン民謡を愛好し、一見温雅で骨太な構図にしっかりと裏打ちされた数々の傑作が生まれたのである。戦後、京都の旧い名家の出であった彼は経済の変革を真面に受けて大きな痛手を負ったが、無欲恬淡としていたらしい。芸術家の高邁な理想と信念を大切にした強い人である。

 川端弥之助は戦前戦後を通じて主に「春陽会」への出品を重ねていった。40歳代後半頃より京都府立女子専門学校、京都市立美術専門学校(美専)、京都市立美術大学(京都美大)、京都工芸繊維大学建築工芸学科、嵯峨美術短期大学などで後進の熱心な指導にも当たり、リーダーとして京都美術界の重要な立場にあった。京都美大の前身は東京芸大のそれよりも早い設立(明治13)であったが、西洋画においては、昭和22年の美専西洋学科設置が発端であり非常に遅れた。京都は日本画の強い地盤と思われがちだが、洋画も明治初期から活動が活発であったことを鑑みるに、実力者が揃って布陣されたのは当然で、川端もごく初期(昭和24)から指導の任に当たった。戦中から戦後にわたり学生は亜流でない本物を求めて懸命だったが、とりわけ話題豊富で説得力があり、ユーモアとウィットに富んでいたのは「川端先生」(学生が黒田重太郎を「黒重さん」と呼ぶのに対してこう呼ばれた)だったのである。

 川端弥之助は、川端柳生の雅号で俳句を詠み、またいろいろと文章を書き遺しており、『川端彌之助画集』(嵯峨美術短期大学綜合美術研究所・川端彌之助画集刊行委員会刊 昭和62)などから、彼の人となりや考え方、当時の特に洋画家たちの様子や交流がよく伝わってくる。交友広く、ウィットに富んだフランス小話が大好きだったダンディーは、京都の生き字引でもあり、京都の文化人を代表する洗練された都人であった。そして何よりも周辺の人々に慕われた。飄然としながらわんぱく坊主の一面もあって、居眠っていたり熱弁を振るったりしているとこっそりとスケッチされてしまうらしいが、そんなところもまさに京都人である。川端弥之助は、ベル・エポックの香りがまだ残っていた頃に渡仏し、大正ロマンの旧き良き時代を生きたリベラリストと言うにふさわしく、またパリのエッセンスをまとった慶應ボーイで、他方で旧家の町衆旦那の雰囲気を持ちつつ謙譲の美徳を備え、温厚で礼儀正しく、まさに日本的な教養と発想を秘めた彼の洋画そのままの紳士だったと思われる。

川端弥之助−赤色への思慕

 川端弥之助が描いたのは、優雅な風貌の人物や、やわらかい雲や親しみやすい風景だったが、よく観ると、温和な画面と相対するような、内に秘めた熱くてしっかりとした何かが絵から滲み出てくる。師匠譲りの確実な構図と色が、柔らかいベールに覆われた画面の奥から見えてくるのだ。川端は赤を好んだ。その赤は、同じく京都の里見勝蔵が好んで使った強烈で過激な意味合いのものではなく、また霜鳥之彦が赤色恐怖症などと言われたほどの深刻なものとしてではなく、鮮麗にして温かく優雅な赤であった。

 <祇園祭山鉾巡行の図>(本図録p.15)に見る、何と迷いのない頑丈な構図と赤色の絶妙の配置であることか。絵に命が吹き込まれている。祇園祭の山鉾にかける京都の町衆の意気がズシンと伝わってくるのは、川端弥之助がまさに感じていたことそのままなのだろう。彼の思慕した赤は、ほとばしる血潮のそれではなく、確固たる構図から自ずと主役として浮かび上がってくる、ありのままの姿の赤だった。くっきりとした青ではない木々の緑や清冽な水に近い青があるように、紅、丹、緋、朱、オレンジ、赤茶で、クリムゾンでなく東洋的な赤とでも言いたくなるような、より自然に添うような優しい赤である。人物や花、神社仏閣や瓦屋根に始まり、土や木に至るまで赤の要素を忘れたことはなく、その多種多様の赤ががっちりした構図に絶妙に配置されて絵に溶け込んでいる。川端弥之助の策あり、観るものは安心して典雅な世界に誘導されていくのだ。

 過日、彼の作品<黄檗山>(本図録p.17)のイメージを求めて萬福寺を訪れた。その東洋的な静かな境内に佇む赤は、絵の中の赤とともになかなか頭から離れることがなかったが、そのまま南へ、今度は修復が完成した宇治平等院鳳凰堂の赤を確かめに足を伸ばした。前回(昭和25)修復の「鉛丹」(鉛を焼いて作られた赤)に替わり、古い瓦に付着していた塗料の分析で判明した「丹土」(酸化鉄と黄土を混ぜたもの)を使って元の色に塗り替えられたそうである。レンガ色がかったベンガラに似た赤で、その美しく落ち着いた色は鳳凰堂の威厳をますます高め、私は「この赤を待っていた」と不思議にも興奮した。鳳凰堂のこの色を見ていない川端は、いったいどんな赤を画面に置いてみるのだろうか。

 川端弥之助の博識は有名だが、学生に気軽に声をかけ、たとえば「アンティーム」(叙情、親密、くつろいでいるさま、のような意 ボナールやヴュイヤールなどはアンティミストと呼ばれる)と「色」の熱心な話をしたという。ゲランの教えの上にアンティームが滋養となって満載されているような、何気なく見ると自然に寄り添って咲く野の花のように叙情的で親しみ深いが、じっと見入ってみると奥深い真実の世界が展開し始める、熱くて頑丈な作品が多い。そして美しい赤が私たちの脳裏に残照のように焼きつく。

おわりに

 「油絵は西洋のものには到底敵わない、4、500年の違いがあるから」と思い続けることは今や時代遅れであろう。美術は東西交流があって個性的に自在に発展しておもしろくなる。感覚は原始的なものから発し、画家は各々の原始を呼び起こして制作するものだが、良い作品には必ず、知らずに、その人が生きた時代や環境が反映されるもので、それが知的で美的に成就された時に人の心の琴線を響かせる素晴らしいものとなる。時代や環境には多文化の吸収を含めて膨大な智の集積があるからである。春陽会は、近代に喧々諤々たる状況で、敬虔に美術家の在り方を模索した結果創立したのであって、巷で言われることもある単なる寄り合い所帯なのではない。彼らが模索した内容は世界が身近になった今にも通じることで、培われた東洋の発想を念頭においた日本人の洋画をもっと発展させたかたちで是非観てみたいものだ。

 川端弥之助が渡仏した頃は、多くの、京都からもたくさんの画家たちが渡欧した華やかな時期であった。その後の暗い戦争前後の後輩画家たちにとっては、彼の揺るぎない洞察力で観た知的で豊富な滞欧経験は貴重なものだったはずで、それを人には温かく惜しみなく伝えた。そして超真面目に学んだ画業は、帰国後の自らの絵に黙々と発展し続け、まるで内側から果実が熟していくように作品に素晴らしく反映されていくのである。その人となりを表すような確固たる本質を備えた絵画はこよなく愛され、焼失前の金閣寺を描いた作品が天皇陛下のご養育に携われたバイニング夫人の手元に渡ったことなどを知るに、いかにも戦後の次第に活気に満ちていく華やいだ京都の美術界の様子が伝わってきて懐かしい。

 川端弥之助は昭和56年(1981)88歳で亡くなり、59年京都市美術館で「川端彌之助遺作展」、62年京都府立文化芸術会館で「川端彌之助展」が開催された。折しも京都では、特に抽象絵画の意気盛んな画家たちが跋扈した頃であった。

平成27(2015)年夏

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