忘れられた画家シリーズ37「バラの名手二人展」
真野紀太郎(水彩)/池田治三郎(油彩) 2016年5月17日(火)〜6月11日(土)

バラ—美しく強い命の輝き・・・・・・・ 星野万美子

はじめに

 バラは形と色だけでなく香りにも格段に優れ、人への貢献度が高く、花の王または女王と尊ばれるにふさわしい条件を備えている。人と暮らしへの影響は大きく、とりわけ西洋の歴史において紀元前の昔から愛されてきた特別な花である。赤バラの祖と言われるガリカ・ローズ(ヨーロッパを代表する原種系)は、香りの良いダマスク・ローズ(原種系)とともに、古代ローマ時代から栽培されており、白バラの祖と言われるアルバ・ローズ(原種バラの自然交雑種)はルネッサンス時代の名画ボッティチェッリ作<ヴィーナスの誕生>に象徴的に描かれている。18世紀後半頃からバラの育種が盛んになり、園芸種は飛躍的な発展を遂げた。華麗な姿かたちと香りで人々の心を捉えて世界中で育種され続け、今では何万種にも膨れ上がって数えることが不可能なほどである。

 西洋のイメージが強いバラだが、育種の歴史を大きく変えるきっかけとなったのが、中国(コウシンバラ=ロサ・キネンシスなど)や日本(ノイバラ=ロサ・ムルティフローラなど)に元々あった原種バラであったことを忘れてはならない。プラントハンターや「東インド会社」などを通じて持ち込まれ、その優れた素質が交配された結果、今日の隆盛を招くバラが誕生したと言えるのだ。日本の原種バラは万葉集などにも詠まれており、日本とバラとの関係は実は深いのである。私たちはバラを育て、眺めて香りを取り込み、実や花を食して愉しみ、また歴史や文学、そして絵画・デザインに登場させ、身のまわりにバラグッズを溢れさせている。バラが備え持つ魅力と波及効果の絶大さについては、他の花の追随を許さないであろう。

 真野紀太郎と池田治三郎はバラに魅せられ取り憑かれ、そして対峙して立ち上がった画家である。光と風を受けて美が極まったそのあっという間に、画家はバラの命をすくい取り、巧みな絵筆の技で画面に定住させた。バラは生気を保ったままでしかと輝きを放ち、人々を癒し続けている。

バラのしたたかな戦略

 人以上に長い歴史を持つと思われるバラだが、私たちが手に入れるバラのほとんどは人の手で原種から作り出され、バラがその要求に大きく応えてきた結果の産物であることは確かだ。園芸品種の改良はどの植物にも為されてきたが、バラほど盛んで多種にわたる例は見つからないだろう。あらゆる手を尽くして追究されてきた華麗極まりないバラだが、長い間青色品種は存在しないという現実もあった。青い色素を持たないので交配育種法では作出不可能とされてきたのだ。ところが最近、遺伝子組み換え技術により、主に赤いバラから赤の色素を抜くという手法で藤色や紫色に近づけて自然界にはない青系のバラが産出されるようになった。その一方で、原点に戻った交配育種法による研究がわが国でも行われ成果が出ているという。ただ青の色素が発見されたものの交配が難しく、遺伝子操作に頼らない青バラへの道はまだ険しいとも言われている。人をして飽くことなく追究させ続ける、そこに王たるバラのしたたかな戦略が見えてくる。

 サクラを花の王とする人も多いだろう。『はな』(札幌農学校学芸会蔵版 川上瀧彌 ・森 廣 1902 明治35)の「薔薇科 薔薇 ばら」の項目では「泰西の人、此花を賞ずること我國人の櫻花に於けるが如し」と述べられ、明治のその頃はサクラが筆頭に愛でられていたのが分かる。 中国西北部を原産とするボタンは「百花王」「花王」などとも呼ばれ、わが国を含め東洋の花の王者としてのイメージは強い。春のさなか灯籠のそばで立派なボタンが咲き誇り日本庭園が華やかに彩られる、人々はこんな光景をこよなく愛でてきた。

 多種多様の花を題材にしたことでも有名な歌人与謝野晶子は「髪に挿せばかくやくと射る夏の日や 王者の花のこがねひぐるま」(『恋衣』1905 明治38)と詠んだ。ヒマワリを「黄金向日葵(コガネヒグルマ)」としたのは与謝野鉄幹や石川啄木と同じだが、晶子はそれを花の王者に見立てている。バラについては「今朝、わが家のどの室の薔薇も、 皆、唇なり。 春の唇、 本能の唇、 戀人の唇、 詩人の唇、 皆、微笑める唇なり、 皆、歌へる唇なり…」(『薔薇の歌・八章』 1920 大正9)など、バラのありようを鋭くとらえ的確に表現した。特に剣弁の花びらを唇とは言い得て妙、女性らしい奇抜な感覚である。晶子はバラの凄い実力を認めているが、妖しげな美しさをも兼ね備えたバラより、ただただ熱烈な生命力の強さを素直に堂々と体現しているヒマワリの方が王者にふさわしいと思ったのだろうか。

 バラは棘があるという理由で嫌われたりするも、「There’s no rose without a thorn 棘のないバラはない=世に完全なものは存在しない=誰にでも弱点がある」という諺まで生まれて庇われ、棘があるゆえかえって美しいと人心を惑わし注目を引いている。元来、うばら(うば棘)、いばら(荊)と呼ばれたほど強烈な棘を持っていた(棘のないバラもある)が、品種改良もあって今ではカラタチやボケほど強烈でないところがなかなか憎い。実際に育ててみるとバラは草花ではなく木であるだけに案外に強く、それもこれもしたたかな戦略に見えてくる。しかし瞼に浮かぶような爛漫の開花を、しかも四季咲きの名のとおり愉しもうとすると難しい。害虫や病気や蒸れに弱く、その気高そうな気難しさで反対に人の意欲を掻きたて惹きつけているように思えてしまう。バラは王、女王と呼ばれるに足る素質と戦略を何重にも兼ね備えているのに違いない。

黄色いバラの思い出

 私もバラ好きのひとりである。幼い頃に憧れて眺めたバラが思い出される。車が庭を車庫として占領してしまった現在ではなく、家々に庭が普通にあった時代だった。表庭には門を挟んで紅白のウメ、蓬莱山に見立てたマツとツツジ群を囲んでサザンカ、キンモクセイ、マキ、ナンテンやチャなどが植えられ、裏庭にはカキ、グミ、イチジクなどの果樹やユズリハ、私の誕生記念樹のカンツバキ(実はサザンカ)などとともに、花壇には宿根草や球根類、一年草が家族の思い出とともに四季の暮らしを綴っていた。その裏庭で父が一本だけ大切に育てていた黄色いバラが今でも眼に焼きついて残っている。

 黄色いバラの誇らしげで優雅な花の立ち姿は私を釘づけにした。その頃の関西の伝統的な庭作りの典型的な一例と思われる庭でバラは似つかわしくなかったのか、あまり目立たない裏庭の端っこで控えめに、でも華やかに咲いていた。伝統的といえば、花ごとポロリと落ちるゆえに斬首のイメージがすると敬遠されたツバキ、お墓周りによく咲くイメージのアジサイ、家族が絶えていくとの迷信で嫌われたビワなどは植えられていなかった。棘のあるバラも例外ではなく、庭植えにされるのはむしろボタンであった。隣近所や親戚の家々にもバラが植わっていた記憶はない。

 そんな時代にちょっとハイカラ好きであった父が新しく植えた、目立つピンクや赤ではない黄色いバラであることを知っていた私は、密かにひたすら眺め、バラが導く本で知る西洋の世界に心を馳せていた。特別扱いされる訳でもなく、他の植物と同様に庭の一部として自然に溶け込んでいた健気さが、より深く私を惹きつけたのだろう。このはんなりとした柔らかい黄色でありながら、姿は剣弁高芯の大輪で気高いバラが私を植物好きに導いてくれたのかもしれない。

心眼で描くバラ

 画家たちはバラに何を見たのか。清淡の中の爛熟、妖艶の中の清純、女性の美しさにたとえた風情、あるいは奥行きの深い造形の完璧さか、ふくいくたる香りを含んだ質感なのだろうか。バラそのものを、特に切りバラ(生花のバラ)を描くことは画家たちのひとつの挑戦であった。バラが咲いている風景ではなく、シンボルや脇役としてでもなく、バラの花そのものをストレートに描ききるのは至難のわざである。美しさを醸し出している生き物の真の姿を完璧に描くのは容易ではない。バラは鼓動を刻んで生きるものの圧倒的な美しさを持っているのだ。梅原龍三郎は「ばらの開こうとする非常に弾力のある、ふくらみとその螺旋状」を、中川一政は「力強さと躍動感」を描こうとしたと言っている。魅惑的な美しさを支えている生物の健気とも言うべき底力の強さを感じ取っているところはさすが画家である。

 文学の世界で言うならば人は散ってしまったサクラを見てさえ花見ができる、それは卓越した心眼でものを見ることだが、画家に置き換えるなら心眼で見たものを描くことである。ルノアールが常に懸命に自然を見つめようとしたのも心眼で物事を見るためであった。存在するものの形と色をそのまま写し取っても感動は芽生えず、心の琴線は鳴らず、芸術からの示唆を受けることもないのだ。

 近代洋画においてバラを描いた画家は多いが、真野紀太郎は水彩で池田治三郎は油彩で、ともにバラにとことん専念した画家である。遺された作品は時代を超越して命の限りに光り輝いている。バラに真正面から取り組んだ彼らの絵画が今なお新鮮で生き生きとしているのはなぜだろう。バラが受けた光、含んだ水分、発する香り、バラを揺らす風や空気の温かさがそこにあるからだ。描かれているのはバラの生きとし生けるものの健気な姿である。命を絞って咲いたバラが、切られてなおその美しさを保持している命の強い輝き、それこそが画家の心眼に映った姿なのだ。木に咲いているバラではなく、切り花のバラの絵が圧倒的に多くまた迫力があるのは、その命の強い輝きがバラの花には特に凝縮して見られるからだと私は思っている。本当に美しいものは強いのである。

 真野紀太郎と池田治三郎が描いているバラは、ほとんどが20世紀を席巻した剣弁高芯のハイブリッド・ティー(HT)と呼ばれるバラの一群である。花の王あるいは女王と納得するに至らしめたのは、このハイブリッド・ティー(HT)の登場が発端であった。この系統のバラは、バラと言えば誰もが思い浮かべるだろう、強くて大きくて美しく、歴史的にも意義深い、あの凛と立つバラたちである。その頃の、この女王様のようなバラ栽培の熱烈な愛好家が並み居る紳士たちであったことが今でも不思議で懐かしく思い出される。こういうバラを観て、画家は時代の波を如実に敏感に反映し、素晴らしいバラの絵を遺した。現在は多種多様のバラを愉しむ風潮にあるが、この剣弁高芯のハイブリッド・ティー(HT)は今もなお絶大な人気を博しており、人類への貢献度には計り知れないものがある。

「ラ・フランス」と「オフィーリア」

 ハイブリッド・ティー(HT)一群のバラは、ブッシュ(木立生)樹形で育ち、真っすぐに伸びた剛直な一枝に花1個(大輪で花径10cm以上、15cmのものもある)をつけ四季咲き性を持っている。花首も強く、花びらは25~40枚と少な目だから花が重くなり過ぎず整形花が多い。それまでのバラは花弁が多くロゼット咲きやカップ咲きが多いのに対し、高芯咲き(中心が巻いたまま外側から順に剥げるように咲くので中心の芯が高く見える)で、個性的な剣弁(それぞれの花弁が外に反り返り先が尖った形をしている)を持っていた。ハイブリッド・ティー(HT)の代表的なものでもあるこのタイプは、バラ独特の気品に溢れた姿をしており、他を圧倒して一躍人気者になった。19世紀以降のバラの主流を成してきたものと言えよう。

 剣弁高芯のハイブリッド・ティー(HT)のバラを語る時、それ等が生み出されていく気の遠くなるような育種の過程において、初期のふたつの名花を忘れることはできない。私がことの外好きな「ラ・フランス」とその名も美しい「オフィーリア」である。

 1867年フランスで生まれた「ラ・フランス」は、当時において画期的な、大輪花を年に何度も咲かす完成された美しい品種だった。この大輪で四季咲きバラの作出こそが、後のバラの華やかな時代の幕を開けたのである。これ以前のバラをオールド・ローズ、以降に作出されたバラをモダン・ローズと呼ぶ分類法が一般的になっている。「ラ・フランス」は、バラと言えば真っ先に浮かんでくる、豪華なハイブリッド・ティー(HT)・ローズの第一号を告げる名花なのである。

 「ラ・フランス」は花弁が45〜60枚あり、外側が濃いピンク内側が薄いピンクで、その重なり合う姿は蕾から開花に至るまでほれぼれするほど繊細で愛らしく美しい。カップ咲きに近い剣弁抱え咲きの花がしなやかな枝につくせいか、重みで花が下向きになったりする。そんな時は切り花にして部屋に置き、その爽やかに甘い香りとともに愉しむのだ。時々花弁が最後まで開ききらないことがあり、そっと手で触ってあげると開き、そのえも言われぬ香りが一層引き立つ。モダン・ローズであるのにオールド・ローズの繊細な優しさが垣間見られる、私の最愛のバラである。

 「オフィーリア」は、ハイブリッド・ティー(HT)種の中で、剣弁高芯の花形を確立したとされる品種である。現代の名花で「オフィーリア」の血を引かぬものはないと言われるほど数々の交配に用いられ、受粉力にも恵まれた美しい花で、1912年頃イギリスで作出されたとされる。

 「オフィーリア」は淡いアプリコットピンクで花弁25枚程度、花径9cmほどの清楚な名花で、その名はハムレットの恋人で、兄レアティーズをして「5月のバラ」と呼ばせた(「O rose of May! Dear maid, kind sister sweet Ophelia!」)美しいオフィーリアに因んでいる。ラファエル前派などの多くの画家が、戯曲『ハムレット』(シェイクスピア 1602)に登場するたくさんの花々とともにオフィーリアを題材にしているが、ジョン・エヴァレット・ミレイの<オフィーリア>は日本でも一番の馴染みだろう。夏目漱石がロンドン留学中に観て『草枕』に登場させ、鏑木清方の<金色夜叉>に影響を与えていると言われる作品だ。「嵐で落ちたタネを蒔いたら新しい品種が出てそれがオフィーリアだった」というようなエピソードまであって、このバラの作出経緯は定かではないらしいが、後世の多くの名花の偉大な母になり、天女のような清らかな美しさと神秘性を感じさせる、まことに不思議な名花である。

ぼちぼちのバラ栽培

 洋の東西を問わず人を夢中にさせるバラであるが、私はそばに置いて自然に自由に密やかに愛でるのが性に合っている。バラグッズよりも植栽としてのバラが好きな私は、チャンスさえあれば栽培してみたいと思い続けていたが、なかなか難しそうで手がつけられなかった。季節になるとデパートで有名なナーサリーの展示販売があり、公の商業施設ではバラの同好会の展示などが頻繁に行われていた。そんなところへ行ってはいつも気落ちして帰るのが常だった。競うように立派すぎるバラが並んでいたし、バラとその栽培者の熱すぎる話に気押された。「バラ栽培は決して難しくない」と教えられ、同時に「定期的に薬剤散布さえ行えば」という足かせがあることも知ったのである。病害虫に弱い点さえ克服すればバラはとても強くて期待に応えてくれるものだということを先輩の紳士たちが熱心に教えて励ましてくれた。でも私は踏み出せなかった。

 他の木や草花を栽培しても、長い間憧れながらもバラには手をつけなかったのである。私の引っかかりは唯一薬剤散布だった。紳士たちのような割り切った考え方ができないのだ。それでもあきらめられず、しつこく薬剤散布が少なくて済むバラを4種教えてもらって買い求め庭に植えたのが始まりとなった。30年ほど前になる。現在そのうちの2種がまだ健在である。

 その後のイングリッシュ・ローズの登場は私の庭のバラ数を増やすきっかけになった。イングリッシュ・ローズは1970年前後にイギリスのデヴィッド・オースティンによって作出され、ガーデン・ローズとしてぴったりの新しい品種群だった。バラらしいオールド・ローズと近代的なモダン・ローズの良い所を両方持っており、耐病性もあり、何より優しく庭に溶け込んでくれるようなシュラブ系の樹形で、「バラも咲いているよ」という自然な庭作りにぴったりだったのだ。

 私にはやはり少女時代の思い出の黄色いバラのように、まわりに慣れ親しんでそっと生きているバラが似合っているのだろう。父がやっていたように無理せずぼちぼちやっているから、病気もするし立派な花は望めないが、それでも毎年咲いてくれるのはありがたい。欲張りだからその後も日本のものやいろいろなバラに手をつけて、特に鉢栽培のものは枯らすことも多いが、バラには悪いけれど私なりの自然体でやらせてもらって愉しんでいる。フレンチ・ローズと呼ばれるフランスの名門ナーサリーの最新バラが最近出まわり、その今までにない美しさと花持ちの良さにまたもや心を動かされている。バラはいつでも私を幸せな気分に導いてくれ、もはや手放せないものになった。

おわりに

 現在の園芸バラの基礎は、バラの母と言われるナポレオンの皇后ジョセフィーヌが、マルメゾン城でアンドレ・デュポンに人為交配による育種をさせて確立したものである。彼女はその折、ヨーロッパのみならず中国や日本の原種を積極的に取り寄せている。ルドゥーテに『バラ図譜』を描かせてもいる。わが国では江戸初期に支倉常長が西洋のバラを初めて持ち帰ったとの伝承があり(菩提寺にそのバラが描かれた厨子がある)、園芸が盛んだった江戸時代には中国からのコウシンバラやモッコウバラが栽培されていたという。今、京都国立博物館の「禅—心をかたちにー」展(5月22日まで)に、狩野探幽の<群虎図>(京都・南禅寺蔵)が展観(前期展示のみ)されているが、画面中央にはコウシンバラと思われるバラが猛虎と対照的に愛らしく描かれている。与謝蕪村、宮沢賢治や北原白秋などはバラに関心を寄せ作品に投影した。上述の「ラ・フランス」は日本では「天地開」と呼ばれ明治時代からわが国でも知られた存在であった。戦後、キクと同様に盛んになったバラ(HT)のコンテストは熾烈を極め、バラが喧嘩花と呼ばれたこともあるそうである。

 私たちとバラとの関わりは、人それぞれに時代それぞれに多様で、またいろいろな分野で変幻自在する側面を持っているが、世界の歴史とともに歩んできたと言われるほど密接であることに変わりはない。知れば知るほど不思議な発見があるし、人とバラは今後も複雑に絡み合いながら歩を進めていくだろう。真野紀太郎と池田治三郎もそうだが、画家たちはバラの美しさや愛らしさを、感動を込めて永遠に保存することができる。バラの原種やオールド・ローズも、過去に心眼を透して描かれたものを知り得てこそ、バラの世界を豊かにすることができた。

 真野紀太郎と池田治三郎は、20世紀を席巻し今も人気が衰えない剣弁高芯のハイブリッド・ティー(HT)の、その命をかけた美しさを絵画に永遠に停めてくれた。その後のバラの多様化を彼らはいかに見るだろうか。青いバラやイングリッシュ・ローズ、復活したオールド・ローズ、集団でみごとに咲くフロリバンダ・ローズ、とみに進化したミニチュア・ローズ、そしてフランスの華麗な新しいバラには何を見、そしてその心眼に映すのはどんなバラの姿なのだろう。

平成28(2016)年4月

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