「母子像名作選そして少女たち」展
2016年11月1日(火)〜12月3日(土)

母子像―そして少女と女性・・・・・・・ 星野万美子

はじめに

 少子化と高齢化社会の問題が浮上して久しいが、過去にも人口増減の悩みは途切れずにあった。地球資源にも社会制度にも限度があり智恵と節度が待たれるが、人の欲望と対立は尽きず、今までがそうであったように、これからも社会構造や考え方がいかに変遷しようと難題であり続けるのだろうか。

 一方で、私たちは大自然から与えられ原始から決して変わらないすばらしい本質を持ち続けて生きている。生まれいずる者、小さき者、子供に対する限りない愛はそのひとつである。自然が人に与えた類い希な優しさの本質で、無償であり、聖母子への敬愛に通ずるような尊い愛である。

 母性とは、女性が生まれながらに持っている母としての天分、つまり子を産み育児する能力を持つ女性の特徴を意味する以外に、小さくて弱いものを見ると守りたいと思う種の保存のための本能(男性にも備わっている)、ひいては大きな力によって生かされているような母性性の感受性などを言うようだが、無条件の慈しみの心、あるいは利他の心とも言うべきすばらしい素質なのである。しなやかで繊細で和やかな女性の特質も、天性として与えられた母性と繋がって現れる美点なのであろう。

 出産だけに関係するものではない生得の麗しい資質は、人間社会を温かく包んでいる。女性の社会進出は目覚ましいが、最近身近なところで驚くのは、バス運転士や警察官などでの活躍で、少々角張ったことの多い世界だけに女性のきめ細やかさと優しさが有効に働いている光景には感心させられる。男性のやり方をただ後追いするのではなく、老若を問わない女性の母のような温かさが生かされ広く行き渡っているのは幸甚なことである。

 母子を描いたものについては、西洋では聖マリアと聖イエスの宗教的な側面を持ち男性画家によって描かれた聖母子像は定番で、長く愛され伝統となってきた。近代化とともに、母や乳母と子供が描かれるようになるが、それを女性画家が描くテーマに仕向けられた時代がある。彼女らがそれまでの男性主体の芸術の領域にいかに参加していったかと関連して、ジェンダー(社会的、文化的に形成された性別)論などで論じられるような歴史的な変遷があることを加えて考えねばならない。女性のみが主役になれるこのテーマに対して、芸術の領域を堅固に守った男性芸術家たちはいかなる眼を持っていたのか、併せてみてみたい。

印象派と女性画家

 近代以前は、絵画の最重要課題が人間を描くことであり、グラン・テーム(偉大なる主題)とされたのは古代神話や宗教から題材を取る歴史画で、続いて肖像画、風俗画、風景画、静物画の順に格付けされていたような時代である。また壮大な命題を持つ絵画およびそのために必須の人体・裸婦は男性しか描けないとされ、女性画家の立場はあってないような低いものだった。パステル画家、肖像画家、静物画家として数少ない例があるくらいである。そんな流れの中、母子を描くことを課せられたとはいえ、印象派の女性画家たちの台頭は注目に値する。

 19世紀末フランスにおいて、近代産業社会に移行するヨーロッパやアメリカなども大体同じような様相だったが、偏重とも思える母性愛への傾倒が社会変化として起こり絵画に与えた影響は大きい。普仏戦争(1870-1871)での敗北ならびにパリ・コミューン(1871パリの自治市会、革命自治体)の活動にまつわる暴動や圧殺で人口が減少したため、政策的に特に育児が奨励され母性が重要視されたのである。絵画においても母と子は人気のテーマになった。市民社会の価値観の台頭とともに幸福な家庭が最上の規範とされ、母性は女性の生活において最も重要と信じられた時代で、印象派においても、モネやドガが乳母や赤ん坊を日常の風景として描いてはいるが、特に女性芸術家が描くように奨励されたテーマが母子の像であったようだ。女性には男性にない特有の感情があって子供を描く資格があると考えられたからである。

 モネやドガは、伝統的な聖なる母子像ではなく、近代生活のひとつの情景として現実の女性と子供を描いた点においてモダンであった。子供に接しているのが母でも乳母でも、それが日常であれば、そのように家庭のうららかな情景として描いたのである。当時の上流階級の子供は乳母に育てられ、乳母は労働として育児を担当していた。子供の愛らしさと小さき者を愛おしむ女性の母性的な優しい姿が、人間生活のなかの自然な美しい情景として表現されている。

 女性の産業工芸の面での関与は認めても、依然として芸術としての美術は男性の領域だった時代、絵画の革新とともに画家の変革を行った印象派の流れの中で、制限に押しつぶされていた女性画家たちも少しは自由を獲得するようになった。子と女性を中心においた穏やかな光景を印象派の様式でモダンに表現したベルト・モリゾ(1841-1895)、多くの女性像を描くとともに、母と子の溢れんばかりの愛情とスキンシップを鮮やかに表したメアリー・カサット(1844-1926)などは持てる才能を発揮した。谷出孝子<樹陰>(作品番号⑧)は、モリゾやカサットの影響が窺える目線で、明るい光と色を微妙に捕らえて描かれた佳品である。

 モリゾは依然として乳母と子供を描いているが、乳母が堂々と主役として描かれている点がそれまでになかった意識の変化である。母が実際に子供を育てること(つまり現在に通じる労働者階級のやり方)に焦点を当て、母こそ子に愛情を注ぐ存在であると表現したのはメアリー・カサットである。ヴィルジニー・ドゥモン=ブルトン(1859-1935)は、印象派ではないが、女性芸術家としての地位向上に活躍し、農家の母に大地の母であるローマ神話の女神や聖母マリアを投影したと言われる。主義や描き方は違っても彼女等の描く普通の母と子に、伝統的な聖母子像に見られるような聖性が共通して盛り込まれているのはなぜか。当時、母と子に「近代の聖母」という観念が強調される傾向があったとは言え、敬愛に通ずる希有な愛情を母(女性)と子の間に純粋に感じ取っていたからに他ならない。それが母であるか、乳母であるか、あるいは子供が誰の子かを問うよりも、愛すべき小さき者に対する偉大なる母性の発露という、同じく母性を天性として持っている女性画家の視点で描かれ成功していることが興味深い。

男性の客観的な眼

 西洋の近代社会で母子像が女性の描くテーマとして課せられたものであったことには驚くが、男性も女性も等しく母から生まれ、母性と全く縁のない人というのはおよそあり得ないことだ。数々の芸術家が母への限りない賞賛と感謝に満ちた名言を遺しているが、母にならない男性にとっての母や母性はいかなる存在で、その眼にはいったいどのように映ってきたのか、逆説的なものも含めて考えてみたい。

 ゲーテの「幼児を抱いた母親ほど見る目に清らかなものはなく、多くの子に囲まれた母親ほど敬愛を感じさせるものはない」という名言は広く浸透し、幼い頃に母親に本を読んでもらうのが好きだったゲーテに、母は話の最後まではわざと読まずに、続きや結末を想像させるようにした、というエピソードもよく知られている。目を輝かせ、感情移入が過ぎて泣いたり怒ったりするような感性豊かな子だったようで、その想像力を成長させ才能を開花に導いたのは母である。『イタリア紀行』でグエルチーノ(イタリア・バロック美術を代表する画家)の絵について、「復活したキリストが母のもとに姿を現わすところを描いている絵は、ぼくにはたいへん好ましいものであった。キリストの前に脆きながら聖母は、えも言われぬ心情をこめて彼を見上げている…その姿は限りなく好ましいものだ。(キリストの)母を眺めている哀愁をおびた眼差しは無類なもので…」のように述べている。絵のすばらしさを賞賛しつつ、母と子の崇高なまでの清らかさに自分と母を重ね、率直に母への敬愛の念を抱いたと思われる。黒田重太郎<母子像>(作品番号③)は、同じような眼を通して観た母子(妻と息子)の、聖母子に通ずる清らかさと無上の愛を重厚なタッチで緻密に描いた力作である。

 人間の実存的な葛藤に目を向けた作品が多いシェイクスピアは、男性を主人公にしたものを圧倒的に多く書いている。『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラは数少ない女主人公だが、愛に殉じた美女と英雄の恋愛劇の仕立てでありながら、女性の魅力を以てエジプトを守ろうとした女王の政治劇であるとし、クレオパトラ解釈に一見識を提示している。彼の作品には豊饒の女神はあっても肉感的な女性は見当たらず、女性の理想像を聖なるところまで高く追い求め、その結果として、悲劇の女性が再三登場する。『ハムレット』のオフィーリアは、絵画の主題としてよく取り上げられ悲運の美女として有名だし、『リア王』のコーデリアも然りである。

 またシェイクスピアは『ハムレット』(ハムレットは母の不義に悩み抜いた)などの作品を通して、母(女性)への恐れと憎しみを表現しているが、「聖母のような慈愛」と「(女の性ゆえの)おぞましさ」とを同時に併せ持つ母なるものに対して、後者に強いこだわりを見せる。悪女の汚名高いマクベス夫人(『マクベス』)は、国王を殺めてでも夫が王位につくことを企み、「殺し屋の手下たちよ わたしの乳房の中にもぐり込み乳を胆汁にかえておくれ」「お乳を吸っている子供がどんなに可愛いことか でも、私の顔を見ながら微笑んでいるその子の柔らかい歯茎から乳首をもぎ取り その子の脳みそをたたき出すことだってできます」と吐くような、子供との関わりを全く思い起こさせない女性のありようへのこだわりである。そういう女性の謎と疑問を問い続けたのだろう。夫マクベスの小心や狡猾さをシニカルに描くことも怠りなく、魔女がささやく「きれいは汚い、汚いはきれい」はマクベス夫人を指すが、野望を持つマクベスにとっては都合のいい言葉であると設定している。

 人間社会の矛盾や人間の不可解な心理を投影するために、作品のあちこちに辛辣なアイロニーを盛り込んだシェイクスピアであるが、根底に、実はアイロニーではなく現実なのだと教えているような厳しい眼が感じられるのだ。当時の男性優位社会で、男性側から勝手に理想像を仕立て上げられた女性の、自分でも分からない自分の本質との葛藤と哀しさを、男女両者への批判を込めて描いているとも言える。「聖母のような慈愛」を持った母なるものについては、ゲーテのようなはっきりとした表現は見当たらないが、アイロニーを挟む余地のないものとしたのか、あるいは子供のいなかった当時の最高権力者エリザベス女王への気遣いであったのかどうかは分からない。

 母と子、少女や女性を描いた男性画家の場合をみると、情景のひとつとして描いたモネやドガがいれば、聖母子を意識しながら、授乳している妻を家庭の情景の主役にして一歩も二歩も母子の世界に踏み込んで描いたルノワールもいる。その一方で、冷ややかで、中には何か得体の知れないものでも見るような不思議な観念を持って描いている画家もおり、また一転して聖性を付与し純化を極めていたりして様々だが、大方が客観性を多分に感じさせるものになっている。女性画家によるものが、母と子の親密な情感に満ち、その親しさの中に尊いまでの優しい愛が感じられるのと対照的である。セガンティーニの、なぜか枯れ木の上に乗っている聖母子像、藤田嗣治の大人みたいな子供の特殊な世界、秦テルヲの拝みたくなるような仏性の母子…。母と子に対して、女性画家の眼とは何か違う、画家によって様々に振れ幅も大きいが、おしなべて客観的に冷静に展開していく眼が感じられる。シェイクスピアが指摘している「おぞましさ」に通じている可能性をどこかで感じているような眼であり、転じて一気に聖なるものに昇華していくような眼である。母を賞賛し感謝する気持ちを強く持ちながら、少なくとも女性が当たり前に持つ愛おしくてたまらないという親密で熱い情感は持ち合わせていないのだろう。

描かれた子供―藤田嗣治の場合

 日本には浮世絵に見られる風俗的な女性像はあったが、西洋の聖母子から始まる母子像や少女や女性像の絵画の流れのような発想はなかった。西洋画の導入とともにそれはいち早く受容され、洋画だけでなく日本画でも浮世絵と洋画の要素が混合したかたちで発展し、数々の名品が遺されてきた。逆に、母子像の画家として有名なメ アリー・カサットは浮世絵に感化を受け、その影響が窺えるパリ女性の日常生活を題材にした多色刷り銅版画の傑作を遺している。東西の絵画は互いに影響しあったが、西洋社会に直接乗り込んで日本人のアイデンティを主張しアピールを実践した画家に藤田嗣治(1886-1968)がいる。この頃パリに留学する日本人画家は列をなすほどであったが、大半は西洋の最新の動向を受容し、帰国してその成果を問うパターンがほとんどだった。彼らとは考え方と意気込みが全く違い、そのせいで理解より誤解を招いて苦労した藤田だが、西洋絵画の中に日本画の伝統を持ち込むことによって、フランス画壇に日本を内包した新たな価値を寄与すべく精魂を傾けた、希有な日本人画家なのである。

 藤田嗣治は西洋人を驚嘆させた素晴らしい裸婦や少女や幼児を描いたことでも知られる。「如何に自然を解釈し、翻訳して現すか…単に目から見た、写真機のような見方では駄目である。必ず我々の脳裏で見、そして知った自然を画布の上に翻訳しなければならない」(在仏十七年—自伝風に語る『藤田嗣治画集』1929)と語ったように、婦人や少女や子供たちを自然が生み出した美しい産物であるとするからには、画家の脳裏を巡ったあらゆるものが画布に表現されているはずである。藤田は、日本画的な乳白色の下地と面相筆や真書き筆(書道用)を用いた黒の線描を油彩画に用い、西洋の伝統的な画題である横たわる裸婦をいかに描くかに腐心したと言われ、その比類なき婦人像は一世を風靡した。

 ところで、生涯何度も結婚したけれど子供をもうけることのなかった藤田だが、聖母子や子供の画題はどうだったのだろう。フランス国籍を得、カトリックに改宗してレオナールになった藤田にとって、聖母子は魅力的な描くべき画題だったと思われる。藤田は生涯を通して子供が好きでスケッチをたくさん遺しているが、実在ではない想像した子供の絵が多いのが特徴だ。「数多い子供の絵の小児は創作で、モデルを写生したものではなく、画の中の子供が息子や娘で一番愛したい子供だ」と述べているが、創作されたその子供たちは、人間の幼児であるのに聖イエスよりも人間から遊離し、まるで雲の上にいるような幻想的な雰囲気を漂わせ天使のようでもある。糟糠の妻フェルナンド・バレーは画家で母子像などを得意としたそうだが、その影響はどうだったのだろうか。藤田の描く子供は、宇宙から現れたような一種異様な雰囲気にも包まれている。子供の顔が幼さに溢れた顔ではなくてなにか凄みのある異次元的な様相を呈していたり、体型が大人っぽかったり、衣服の着方が大人そのものであるように描かれているのである。

 藤田は職人の仕事や技を尊重した。裁縫を得意とした最初の妻の影響か、自らも裁縫などの手仕事に没頭し、アトリエのインテリアや教会のデザインにも凝った。職人仕事がよく見て取れる雑貨に対する興味は相当大きく、それ等が飾られた室内画も多い。印象派の画家たちが日本の工芸品や団扇・扇子に夢中になったように、感覚の違うフランス雑貨に日本の手仕事に通ずる技を発見して愛着を持ったのだろう。器用で日本の誇りをぶれずに持ち続けた、きめ細かい感覚の持ち主だった。その画家にして不思議な子供への眼は、子供の中に母性では見えない何かを見ているのは確かで、そればかりを敢えて表現したように思える。子供の絵に戯画的面白みを加えているとも、子供に自分の自画像を滑り込ませているとも見えなくもないが、ただ愛くるしいだけでない、あくまで大人になる前段階としての、あらゆる可能性を秘めた人という生き物としての子供を透視しているように私には見える。未来の大人を背負わされている子供の姿ゆえ、一種異様な雰囲気を呼び込むのだろう。「三つ子の魂百まで」という諺があるが、母性では覆い尽くせない、子供の内にある未来を読み子供を冷静に直視する眼がそこにあり、男性の子供に対する現実的で客観的な愛と未来を託す夢が感じられる。

秦テルヲの女性への眼

 男性の眼で以て、女性と母性をとことん深く掘り下げようとした画家に秦テルヲ(1887-1945)がいる。下層の人々は言うに及ばず、特に男性社会の渦中で低い立場に置かれた女性に密着し、伴走し、追い続け、真摯に考えて悩みぬいた画家は稀であろう。「同じ人間でありながら」という強い思いがあったのは確かで、追えば追うほど謎は深まり、その先にたどり着いたのが母性を掲げた神秘的な領域だった。どの時代であっても画業はすばらしく非常に魅力的で、彼の悩める魂とうらはらに純度の高い美しさに溢れている。美よりも真を求め続けた画家ならでは、である。

 テルヲは子供や少女が好きで、スケッチをしては彼らになつかれたという。「小児に親しみ酒と女に耽溺」(テルヲの言葉)したのは、子供たちに通ずる童心を持っていたテルヲが、大いなる疑問と激しい反動を同時に抱え込んだからであろう。日露戦争後の急速な近代化の矛盾に満ちた時代に生き、熱心なキリスト教信者であった母の感化を受け、宗教的な社会意識に目覚めていたテルヲならではだ。丙午画会(1906結成)に参加し、ロマン主義から自然主義の芸術風潮へと変化する中で、労働者階級の現実の日常を写実的に描こうとし、田中喜作を中心にした黒猫会(=シャ・ノワール 1910結成)に加わり、ヨーロッパからもたらされた世紀末芸術の、酒と女の濃厚で悪魔主義的な匂いも感じ取った。テルヲは「自身の信ずるところがあってキリスト教と温かい家庭を捨て、生存の反面である酒と女と腐れた肉を求めて漂泊生活を送った」と言っている。貧しく虐げられた人々への同情と共感、社会への精一杯の抗議が作品にみごとに抽出され、才溢れた芸術性に包まれて表現されている。

 矛盾だらけの中から一筋の光が差し込んだのは、正式に結婚し穏やかな自然の中で暮らし子供が生まれるという生活の変化だった。仏性宿る母子から仏画へと、テルヲ自身の完結へと向かって行く。しかし彼の社会への疑問は拭えず、戦争へと突き進む時代を憂えてまたもや苦しむのである。真を問い続けた悲運の芸術家であった。真を問い女性を深く見つめた画家にして、女性に備わった母性を、まるで崇拝しているかのように仏性へと仏像へと昇華していった点は、母性というものを理解する上で大いなるヒントになると思う。参照:<恵まれしもの>(1921 作品番号①) <瓶原母子像>(1923 作品番号⑤) <恵まれしもの>(1925 作品番号⑥)

おわりに

 先日女性運転士の市バスに乗り合わせて心を洗われた。通訳案内業をしていた大分昔、美しいスェーデン女性の「日本では女性がバスを運転しないのか。私はバスを運転している」という話に私は少なからず仰天したが、日本女性もワンマンバスを運転するようになったとは「隔世の感あり」だ。彼女のみごとな運転技術と話術はもちろん、脚の不自由な女性乗客が降車する際に見せたきめ細やかな優しさに感動したのである。乗客が歩道に立って歩き出す準備が整うまで相当な時間を要したが、彼女は最後まで温かい気遣いを怠らずに見守り、その乗客も丁寧なお礼を返したのだ。大抵は乗客を降ろした途端発車するから、時間のかかる乗客は降りてすぐ歩道の手すりにしがみついてバスの発車を待たなければならない。夕方の忙しない時間帯にイライラしている人はひとりもおらず、人を思いやる心に触れて爽やかな空気に包まれた。私は堂々としてきめ細かい女性運転士に母なる大きさを感じ、安堵と温もりを覚えたのである。

 女性の良い特徴を、広義であれ母性に結びつけて考えることには反論もあるだろう。しかし、もともと種の保存のために本能として備わった母性が、人類が築いた文明と文化の道のりと歩調を合わせ、生かされ伸ばされて貴重な長所に成長したとも考えられるだろう。普く行き渡る母性の恩恵を受けていない人はどこにもいないはずだ。

 聖母子像は近代以前の教訓的な定番であったが、今や国境や宗教を乗り越えて自由に鑑賞されている。近代以降の愛らしい子供と愛に溢れた女性を描いた絵画は、感動の楽しみを大きく広げてくれた。親しみと癒しを招くこのスタイルの絵画は、18世紀半ば頃から現れ、19世紀には重要なテーマになった。宗教的教訓的な側面の強い絵画の時代が長く続いた後で、母子像は一躍人気が集まり、商品としての地位もこの頃確立したようだ。色彩や形態と構成に、また題材にもあらゆる自然な情景に目を向け、自由自在に発想するようになった印象派以降の画家にとって、母子像だけでなく、生まれながらに母性を携え、少女から女性へ、母親へと生きる女性の神秘が、男性画家にとってもひとつの必然のテーマになったのは当然の帰結と言え、今も脈々と受け継がれている。

 母子像や少女・女性像は洋の東西を問わず、今もなおコンスタントに人々を惹きつけて止まない。私たちは、描かれた人物から静かに放たれる何気ない眼差しや微笑み、幼気ない仕草に魅了され癒されている。自然の中にあっても家庭の一こまとして描かれても、卓越した人物表現ならなおさらのこと、人との豊かなつながりや温かい暮らしを彷彿させる、そんな不思議な力を持っているからだろう。

平成28(2016)年 秋

このウインドウを閉じる