大政奉還150周年記念展
新発見!《戊辰之役之図》
鳥羽伏見の戦い勃発の夕、京都御所では何が起きていたのか
〘150年目の証言〙併催「明治美術拾遺選Ⅱ」
2017年9月30日(土)〜10月29日(土)

論考『小波魚青《戊辰之役之図》とその時代』
京都大学人文科学研究所所長 高木博志

 平成26年(2014)に小波魚青<戊辰之役之図>を、はじめて高久嶺之介氏とともに、星野桂三氏からみせていただいたとき、その迫力と躍動感溢れる詳細な描写に驚いた。慶応4年(1868)正月3日夜、鳥羽伏見の戦いがまさに勃発した直後、喧噪にみちた京都御所・公家門前を活写した、すぐれた歴史画の大作(81.4×143.2cm)である。

 舞台となった公家門とは、今日の春秋の京都御所一般公開の折、荷物検査をして、建物の中に入る御所南西の門である。江戸時代後期の公家門は、京都最大の観光スポットであり、諸国からの旅人はこの公家門より参内する公家を見物した。公家門前では、檜垣の茶屋が酒や肴を売った。人々は酒を飲みながら異形の公家を物見遊山として楽しむ、のどかな風景が展開した(高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年)。それが幕末の政局の中で、軍事的緊張みなぎる場と化したのである。

 <戊辰之役之図>の左下に「明治紀元正月三日夜、余(よ)は、公家御門守衛員と為りて、騒場中、親しく目撃する所なり。往時を回顧し其の真景を謹写す 小波魚青」とある。

公家門横の高張提灯には朝廷の菊の紋と共に、対の雀の「宇和島笹」の宇和島藩紋章が見える。この絵において小波魚青が一番描きかったのは、彼自身も藩士として現場にいた、公家門を護る宇和島藩である。

 大砲が3門、西を向き、騎乗の兵に鉄砲を持った藩兵が並ぶ。公家門の南側には、宇和島藩の高張提灯を掲げた仮小屋の屯所が造営されている。手前には白熊(はぐま)を被った本願寺の僧の集団が武装して、龕灯を照らして御所周辺を警護する。3日夕刻に下鳥羽村で勃発した緒戦勝利の報に、公家達は、急に態度を変え、官軍にへつらうようになった。かれら公家達が刀を携えた伴(とも)に護られて公家門から参内しようとしている。伝令の馬が駆け巡る。躍動感に満ちた作品である。

 岩城卓二氏は、画面手前に駆けつけた伝統的な火事装束の武士の姿と、新鋭の洋式部隊である公家御門警衛の兵のコントラストを指摘する。それとともに、前後に高張提灯(おそらく宇和島藩の紋)をもち供の侍にまもられて公家門から退出する籠の主は、絵の意図からして伊達宗城だろうという。

 小波が「往時を回顧」したと記すように、この絵は明治23年(1890)4月から8月に上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会において褒状を授与された作品である。小波南洋(魚青)の住所は長崎市内中町となっている(鈴木峯次郎編『第三回内国勧業博覧会第二部美術品出品明細目録』)。

 この絵が描かれた前年の明治22年には大日本帝国憲法発布の「大赦」にともない、徳川慶喜をはじめ幕府や仙台藩・会津藩などの賊軍の罪が許され、天皇のもとに平等な「臣民」という建前が成立する。「大赦」により明治期後半の旧幕臣を中心とする江戸幕府の顕彰がはじまり、三越呉服店の江戸趣味や元禄文化の商品化などもその延長にある。第三回内国勧業博覧会が行われた上野の山は、かつて彰義隊がたてこもり激戦となった場でもあった。その一方で、憲法発布、帝国議会開設と薩長主体の明治政府は船出してゆく。

 この絵の制作が、明治維新から20年以上の歳月を経たことが重要であろう。公議政体の立場にあった宇和島藩が、禁裏守衛という勤王の立場いたことを強調する、「明治維新」参画へのトロフィーのようにも感じる。家近良樹氏は、薩摩藩が描かれていないことへの、小波の意図に言及した。鳥羽伏見の戦いの約一ヶ月前の慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令を出したとき、御所北側の薩摩藩邸を拠点に、政局を主導する薩摩藩が、要所である御所西側の公家門と東側の清所御門の警備に当たった(家近良樹『幕末政治と討幕運動』吉川弘文館、1995年)。しかしこのとき薩摩藩が鳥羽伏見の前線にいたとしても、まったくこの絵に薩摩の影はない。明治維新後、薩長藩閥に置き去りにされた宇和島藩士が、倒幕の起点となった夜を描いた絵である。宇和島藩自身が、慶喜への政権復帰を擁護する立場から倒幕へと巻き込まれる局面の歴史的記録であり、その一方で一貫して「勤王」であったと主張したい、明治の歴史意識を反映するのではないか。

 小波魚清は、弘化元年(1844)に宇和島藩の砲術指南役の小波盛行を父に生まれ、同藩の四条派の画家梶谷南海に学び、幕末から明治にかけて京都に移り住み四条派の長谷川玉峰に師事した。維新後に九州を遊歴したあと、明治20年代初頭に長崎に移住してそこを拠点に活動し、大正7年(1918)に同地でなくなった(五味俊晶「『魚青粉本』考察―小波魚青研究の端緒として」『ながさきの空』第27集、2015年)。


 さてこの鳥羽伏見の戦い勃発に至る過程を、素描したい。

 安政5年(1858)の無勅許による日米修好通商条約の調印を契機として、政治・外交上、朝廷の存在を無視できなくなってゆく。文久3年(1863)3月の将軍家茂上洛による賀茂社への攘夷祈願を契機に、多くの諸大名が入京し京屋敷を構えることとなった(『京都の歴史』7、学芸書林、1974年)。長州藩をはじめとする尊攘派は、同年の8・18政変で京都を追われることになった。この文久期には、京都政局が幕末政治の中で浮上し、幕府だけが政治を担うのではなく公の政治の中に、諸藩や、何よりも朝廷が不可欠の存在となってゆく。

 8・18政変のあと、宇和島藩の伊達宗城は、松平容保(会津)、松平慶永(越前)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)、とともに、将軍擁立をめざす一橋慶喜とともに、朝廷から参与に任ぜられ、朝議に加わった(井上勝生『幕末・維新』岩波新書、2006年)。翌元治元年(1864)の禁門の変をへて、第1次長州征伐が起きた。慶応2年1月に薩長同盟が結ばれ、同年12月には徳川慶喜が15代将軍に就いた。

 倒幕は、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、そして討幕の密勅により急展開してゆくこととなった(野口武彦『鳥羽伏見の戦い』中公新書、2010年)。大政奉還にともなう諸侯会同では、伊達宗城は、松平慶永、松平斉正、山内豊信、島津久光とともに召された(『伊達宗城公伝』)。慶応3年12月9日の王政復古の大号令は、大久保利通・岩倉具視、薩摩藩、芸州藩の倒幕派が主導し、山内豊信をはじめとする公議政体派が巻き込まれたものであった。慶喜の将軍職辞退を認め、幕府と摂政関白を廃して、総裁・議定・参与を置くとされ、「神武創業」の古代の天皇親政を理想とした。

 その直後、新政府は、小御所会議で慶喜に官位辞退・領地上納を命じ、慶喜は二条城から大坂城へと撤退した。しかし慶応3年12月後半には、山内容堂(土佐)・徳川慶勝(尾張)・松平慶永(越前)ら公議政体派が巻き返し、「前内大臣」の官位復権、領地返上も保留とする、慶喜の復権案を三職会議で決定した。宇和島藩主伊達宗城は12月23日に再度入京し、28日に議定に任じられた(『伊達宗城公伝』)。

 しかし12月25日に幕府方庄内藩を中心として、江戸の薩摩屋敷を焼き討ちしたとの情報が、同月28日に大坂城の慶喜にもたらされた。かくして明くる慶応4年正月2日から3日にかけて、「討薩の表」をかかげた1万5千人の幕府軍が、鳥羽街道と伏見街道の二手に別れ京に上ることとなった。一方、新政府軍は、薩長両藩兵に土佐・安芸などをあわせて約5千人。大久保利通、西郷隆盛の薩摩藩が開戦論へと舵を切る。それに対して、正月2日夜に伊達宗城は、徳川慶勝・松平慶永・山内容堂らと密かに調停を計り、翌3日にも松平慶永は議定の伊達宗城らと協議するがらちがあかず、ついに午後5時頃、伏見方面での出火との報に参内することとなった。下鳥羽村の緒戦では、戦意に満ちた薩摩軍の周到な準備、最新の銃砲に不意を突かれて、隘路(あいろ)を行軍する幕府軍は、敗走することとなった。

 正月3日、鳥羽伏見で戦端が開かれると、総裁有栖川熾仁親王をはじめ島津茂久ら諸侯は参内し、伊達宗城・松平慶永・徳川慶勝に対し禁闕(御所)の守衛を命じた(『維新史』第5巻)。岩倉具視は、万一の場合、比叡山への天皇の待避を画策したが、伊達宗城や松平春嶽はその不可を論じた。その日、伊達宗城は軍事参謀に任じられた。

 翌4日には伊達宗城は、「征討の事、宜しく列藩の公議を尽すべき」と論じ、官軍が錦旗を押し立てて東寺へ進軍するのに、薩長の専横と反発して従わなかった(『伊達宗城公伝』)。『伊達宗城日記』で、伊達宗城は、「嗚呼歎くべし、惜しむべし、悲しむべし、内府公(慶喜)、恭順の儀は相違なし」、慶喜は冤罪であるとし、自身の無力に恥じ入ると歎いている。正月5日、葛藤のすえ伊達宗城は軍事参謀を辞職している。正月6日に敗戦を知った慶喜は、老中板倉勝静、会津・桑名藩主とともに軍艦開陽丸で大坂城から江戸へと脱出した。

 正月8日には、錦旗(菊章)2旒が建礼門にたてられて水口藩が守り、翌9日には公家門にも錦旗がたてられて宇和島藩兵が守った。

 さて『復古記』には、正月6日の段階で、公家門を警衛する、宇和島藩の士分は124人、足軽が95人、総計219人で、半隊ずつ交代していると報じている。

 慶応4年正月段階から、徳川慶喜を賊とし倒幕を推し進める薩長に、「公議」を無視したものと宇和島藩は反発し、宗藩である仙台藩の助命をもとめるが、官軍側として戊辰戦争に巻き込まれてゆく。

 かくして時をへて明治に回顧される、慶応4年正月3日の小波魚青の歴史画からは、どのような歴史意識が読みとれるのか。宇和島藩にとって、小波魚青にとって、「明治維新」とは何だったのか、を考えさせられる。

謝辞

小文執筆に際し、宇和島伊達文化保存会の仙波ひとみ氏から宇和島藩関係の多くの史料の提供をうけ教えていただいた。また作品やその写真を、家近良樹・岩城卓二・高久嶺之介諸氏にみていただき、ご教示を受けた。

高木博志

1950年 大阪府生まれ。
立命館大学大学院博士課程単位取得退学。
北海道大助教授などを経て現在、京都大学教授 
専門は日本近代史。
著書に『近代天皇制と古都』(岩波書店)など。

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