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〜石を磨く〜  美術史に隠れた珠玉 連載にあたり  
2002年 4月 3日 (産経新聞《大阪本社版》毎水曜夕刊連載)

「作品には玉と石とがあってな、石はいつまでたっても石なんや。
   あんたも石ころばっかし扱ってんと、もっとええもん捜さなあかんでー」。
 古美術商や古道具屋の店頭から筋のよさそうな絵を捜し出し、めぼしい作品を
選んでは画商たちに買い取ってもらうという商売をしていた駆け出しの頃、ある
先輩画廊経営者からこのような苦言を頂戴した。
「ほんまにそうやろか、石はいつまでも石やてー?そんなことあるかいな、
   石かてちゃんと見る人が見たら玉になるもんもあるのんとちゃうやろか。」
そう自問自答し、先輩の助言とは反対の方向へと突っ走ってきた30年である。
   この間、画廊の倉庫に貯りに貯った作品はざっと数千点にもなる。
 一昨年の3月、画廊のお客様のひとり牛尾平四郎さんという方がお亡くなりに
なり、やがて未亡人から牛尾さんを偲ぶ小冊子が送られてきた。その冊子は、画
廊では作品を前にして寡黙に煙草をくゆらすだけであった牛尾さんの人柄を偲ば
せる追悼文で埋っていた。中に同人誌「石たち文学会」創刊の弁(1971 年2月)
が再録されていた。要約すると、
 「僕達は石だ。ごろごろどこにも転がっている石たちだ。われたり、かけたり、
ふみにじられたりしている。美しく見えるものは、何時の世でも、何かを踏みに
じった上に、かろうじて存在している場合が多い。そういう美しさが必要なのか。
そういうものが美しいと言えるのか。人間社会の醜さの中で行き続ける僕達は、
人間と社会の限りなく広い営みの中に、現在の生き方を採りつづける。汚れたり、
曲がったり、あくせくしながら行き続ける。存在し、存在し続ける。」
 生前の牛尾さんが病身を押してまで私の画廊の企画展に繁く足を運ばれていた
訳を、ようやく理解することができる気がした。忘れられ踏みにじられていた石
たちが、見い出され、磨かれ、ようやく脚光を浴びる様が、石ころの一人として
嬉しかったのではないだろうか。
 これまで美術史が主流として取り上げてきた作家たちの陰で、無数の石たちが
捨て去られたままになっている。この連載では、そうした石たちを今一度磨いて
みたい。
(星野画廊主)        
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